競争の排除は清き生き方の知恵

競争は毒だ。霊的な意識はその調和性ゆえに美しく素晴らしいが、分離した瞬間、個我を輝かせるために戦いや勝ち負けの世界に引きずり込まれる。どのようなときであれ、何をしているときであれ、分離したらもうお終いだ。差異の比較が始まり、優劣があり、恐怖があり、引け目やコンプレックスがあり、自己防衛として勝たなければ、あるいは負かされないような立ち回りをしなければ心は潰れる。人間意識の、なんと危うく、浅ましく、痛ましく、不自由で苦しきことか。

このような世界観はもう耐えられないと、少なくとも我々は思い始めている。それは苦しいからに他ならない。その苦しみの原因は何か。どうすればよいのか。諸体を魂に整列させておく以外にいかなる方法もないだろう。魂の意識に入っているときだけは守られる。分離から自由であり、ハートは開いており、武装は解除されており、恐怖心から解放され、途方もない無限の広がりに等しく調和が行き渡っている。競争は霊的自傷行為だが、調和と平和は霊的至福である。とはいえ、魂に整列し、魂の意識に存在が確立されている者は人類においてごくごく稀である。なぜなのか。その理由は瞑想すれば明白である。

魂の存在感よりも、マインドの騒音が勝っているのである。平均的な瞑想者は、さらに低く、情緒や欲求が勝っている。これでは混乱しているも同様であり、四六時中、混乱させられ動揺させられることであろう。そのため、なんとかしようともがく。私が一切何もしないのは、魂意識だからである。騒音があっても、私はそれを無視するか透過することが可能であり、直に魂としてあらゆる動きに鋭敏に気づき、気づいていることで自動的に統御されている。霊的な教えの多くが、この高所の状態の模倣であり、自我でその状態の真似事をし、そうすることで到達しようと試みている。教える者がその境地にないゆえ、間違った話を流布してしまうのである。

霊的状態は、霊的なものによる状態である。自我は、霊的存在の前でいなくなっている。大人しく従っており、存在の気配すらない。ゆえに至福なのである。この平和は、人間の世界の競争と完全に真逆である。ならば、競争の精神や到達しようという個我の意志で瞑想に挑むことはしごく滑稽である。順序を理解しなければならない。霊的なエネルギーが引き込まれたあと、我々は静かになるのである。どのイニシエートであれ、霊的エネルギーなしには無力である。イニシエート体とは、スムーズに霊的なエネルギーが高位のチャクラやアンターカラナを介して流入できる強き伝導媒体である。そこには自我の欠片もないゆえ、そのようなエネルギーが妨げられずに流入できるのである。このようなことを知らぬ初心者は、上からの力を引き込むことよりも、下での努力で自らを自らによって苦しめている。ならば、何もしてはならないということが、なぜ我々には分からないのだろうか。「何もしないこと」ができないのだろうか。

何もさせない力が上から来ていないからである。堂々巡りだろうか。瞑想とは、上からの力を引き入れる術を学ぶためのものでもある。下で何かを実践することは瞑想を妨げるだけである。ただ在ること、ただ見ること、ただ気づいていること、これが瞑想や高所の基本状態であり、瞑想をしているのがいかに人間ではなく魂であるかが理解されるであろう。徹底して瞑想では何もすべきではない。しかし想念を生み出したり、想念につられて情緒的になったり、様々な展開が生まれるであろうが、そのままにしておいていっこうに構わない。魂として、そのような動きを見て、気づいているだけでいい。普通の人が行っているのは、自我で見て、自我で気づいていようとする試みである。観照するのは魂であって自我ではない。ここが分からないのである。だから自分でどうにかしようとする。そのような自我の動きにただ気づかねばならない。

瞑想が難しい、瞑想ができないと人は言う。不可能なことをする場合は難しいのが当然であって、であるならば、何が間違っているのかに気づかねばならないのではないか。そのためには、ありのままに自身を見る能力が必要になるであろう。最も愚かしいのは、他人の瞑想法を真似したり、他人の言うことを真似したりすることである。たとえば672夜に書いてあることを真似しようとするならば、それは自我で真似している。そうではなく、書いてあることを具体マインドではなく、抽象マインドで考えられるようにならねばならない。それには霊的な自立が必要である。本などを参考にするのはいいかもしれないが、考えて実践可能な知恵を引き出すのは我々自身である。ここを妥協しているため、真似事で終わっている怠惰な者の、なんと多きことか。

自ら考えない者がほとんどである。具体マインドと抽象マインドの違いに気づかねばならない。我々が頭と呼んでいるものを使わずに考える能力が抽象思考である。ひいてはそれすら踏み台にされて直観へと到達する。我々の瞑想は常に何かが間違っている。到達しようとしており、精神が競争的なのである。ならば、競争をやめて、武装解除して、安らいで、ただあるがままにあるがままを許し見ることは可能であろうか。

競争する生き方は虚しい。現代社会で競争なしに生きれるであろうか。競争と関わらないことである。交わるべきは魂であって、人間同士の分離した勝負でも競い合いでもない。その種の関わり合いを捨てることができるであろうか。たとえばゴルフが趣味だとしよう。ここまで真剣に読んだ者か、発達しつつある者は、確実に放棄する必要性を感じるだろう。どのような勝ち負けを競うゲームも、また自身を誇る性質を持つなにものも、虚しく苦痛である。それがどんなにゆるく、SNSのように社交に重きを置いたものであれ、駄目なものは駄目だ。調和でなく分離であるものは霊的なパワーを歪め、純粋に引き入れることを失敗させる。だから、日頃の生き方が重要なのである。常に競争しない。常に争わない。常に分かち合う。常に助け合う。そのためには、自分というものが、他人のために存在しているという事実に早く気づかねばならない。自分とは自分のためのものではない。自分の所有物は他人の所有物である。これさえ分かるならば、自分も他人もなくなるだろう。たとえ盗まれても平気だろう。意識において、調和において、分離や区分や単位というものはなくなり解放されるだろう。だから、非霊的な生き方に流れぬよう、生活の中から競争をのべつ排除してもらいたい。競争は、我々の精神を苦しめ駄目にするが、調和や融和は、我々のハートを即座に解放し自由の何たるかを教える。知的な者にとって、これは簡単なことではないのだろうか。

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