最近のこと

あなたにとっての癒しは何かと言われた。「あなた」とは何のことか。パーソナリティーとするならば、パーソナリティー意識自体が非癒しである。それは非常に疲れる意識である。だから何時間も眠ったり休息する必要が人間にはある。私であったもの――パーソナリティーは魂と融合しており、その意識において、完全に癒しである。その意識では永遠に癒しの状態である。これがパーソナリティー意識を使用するとなると、疲労とストレスが生じるのである。

現在、申し訳ないのだが、記事があまり書けない忙しいカルマの周期に入った。最初にそれは、非奉仕的に見えたが、人類への大きな奉仕のポテンシャルを秘めていることが分かってきた。ゆえに猛烈な速度で行っているが、いつ解放されるかは知らない。私は記事をどれだけ書いても全く疲れないが、新しい仕事は具体マインドをフルに使用するため、疲れる。私は仮眠しかしないが、現在は疲労するため、短いものの、日に三回も仮眠している。どう言えばよいか、私は疲れないのだが、肉体が疲れるのである。脳と具体マインドを酷使するために疲れる。肉体機能に衰えが生じる。このような文章を書く時は、完全に癒しの状態であり、高位マインドしかほぼ使用していないため、疲れないということになる。つまり考えずに考えられて書かれている。それはきわめて自動的であり、私と無関係に起きている。

現代人は、「高所」の意識を知らぬゆえ、常にストレスがあり、常に癒しが必要である。なんと惨たらしいことか。瞑想で魂を見出し、接触を拡大し、融合できるようになり、調和が意味するものを知り、摩擦が生じなくなり、分離が失せて一となり、無でありながらも無限になりうるならば、そのとき唯一なる癒しが知られるだろう。真我である。

はっきり言えば、とっくの昔にこの意識は私においては実現されたゆえ、その度合は高位のイニシエートには及ばずとも、何が唯一の癒しであるかを深く知り、且つ、その意識を皆に教え導く能力が与えられている。私は個人を無視した者である。この男は駄目だ、と思ったゆえ、捨てた者である。何事も、捨てさえすればよかったことを、皆に理解してもらいたい。これは簡単なことではなかろうか。個人にまつわるすべてを捨てるのである。ただし、いま私がカルマによって新しい知りもしない分野の仕事をせねばならないように、カルマ的な義務つまりダルマは捨てられない。それは全うされねばならない。重要なのは、巻き込まれぬように意識を高位に保つことであるが、これが難しいのはよく理解している。現に、私も新しいものを学習するにあたって疲れるのだから。つまり、高所の意識からはそのとき落ちている。ここがまだ未熟なところである。高位のイニシエートの場合、ずっと癒しの意識を維持できるだろう。推測だが、疲労することも眠ることも食べることも不要なはずである。

第三イニシエーションでクンダリーニのチャクラが開き火が昇り個が焼き尽くされるにしたがい、人間は超人になるであろう。それ以前は、まず魂を知り、融合によって高所での居住権を得ることである。これは瞑想によって達成される。どの人も、真に癒しと呼びうる意識に入れるようになる。ここが疲れないパーソナリティーの彼岸である。無限の癒しというI AMである。そこでは、我々が知っているすべてが無いゆえに、癒しなのである。すべての既知から解放される。そこには何も無いが、唯一なる我のみが在る。これはいいようもなく美しい。捨てればよかったのである。捨てるとは、この世のモノを捨てることではない。マインド内のものを捨てるのである。マインドを乗り越えるという言い方をする聖人もいる。私は透過と言いたい。なぜならそれは死ぬのではなく、いつでも道具として使えるからである。

放棄は犠牲ではない。放棄された「跡地」を知る者からすれば、放棄の恵みの大きさにははかりしれぬものがある。雑念をしずめることが放棄なのか。それは結果である。上の存在が降りてきて、彼が雑念を殺すのである。肉体の我々を生かしてきたのは太陽だが、それを実在と思わせてきた偽の原理である低位のマインドつまり自我を殺すのは魂という太陽である。我々は太陽に生かされ、次に太陽に殺される。破壊される。それを見守る。この破壊は個人にこだわる者には犠牲だが、こだわらぬ者からすれば美でしかない。ゆえに、ひたすらに魂を求めよと言いたい。もし真の美に到達したならば、私がなぜこれほど美を強調したかを知って涙するだろう。それ以上に素晴らしいものは存在しないからである。というのも、彼が神であり我だからである。それが真我である。ゆえに、真我のみが重要である。

目次