夢と故郷

前の記事を書いてから、何の仕事をしてるのかと問われることがあった。誰がしているのか。或る高次の力が勝手にそれを肉体にさせているのである。しているのはその力であって私ではない。個人が行うことと私は関係がないが、しかし、個人とは何なのか。私からすれば、個人は全体であり、また神であるゆえ、つまり個人の背後のものを私は個人に見るゆえ、何の違いも存在しないのである。神しか存在していない。世界と呼ばれる夢では、神の力だけが神に似せて作られた体たちを使って働いているだけである。

つい今まで仮眠をしていた。夢の中の夢で、昔の友達――といっても四十ばかり年嵩の友達――が出てきて、私が仮眠のために勝手に棲家にしていた空き家を買ったと言うのである。そこは死んだ者が行くところである。友達は、そこに越すのかと私が聞くと、はい、ここが私の故郷ですと言っていた。生きていれば七十半ばだっただろう。血に飢えた日本刀のような人格の持ち主だったが、とうとう死んだのである。私はそれを確認した。帽子をかぶって、柔らかな表情になっていた。あの目つきはもう死んでいた。

また一昨日の夢つまりこの世では、妻の古い友人が事故で突然死した。一般の人が想像すると身の毛もよだつような死に方でニュースにもなっていた。多くの者たちがひどく動揺していた。このようなことが起こることが信じられなくて、怖がっていた。この世の恐ろしさを出し抜けに突きつけられて、痛ましいほどに怯えていた。だから、その者は死んでいないことを教えて安心させた。可哀想に、肉体がその者だと思っているのである。この世すら私からすれば架空のものである。一瞬にも満たぬ表現である一肉体などはさらにほとんど無意味である。死は、多くの個人にとって解放でしかない。ほとんど気にする必要がないほどの出来事である。事実ではないのだから。私は事実から見ているゆえ、おかしくて笑ってしまいそうになるくらいである。死を本当と信じている者からは不謹慎に思われるが、死はその者たちの空想でしかない。

唯一なる生命と、その表現と、表現を通して働く力が存在しているだけである。霊と物質と魂ではなく、霊と物質とトライアドである。だから、冒頭で私の仕事を探りたいと思った人に言うが、私が行っているわけではない。私と思われている媒体が、勝手にさせられているという感覚に近いだろう。媒体は神の意志と計画の一部のもとに強いられて働いているだけである。これがすべての個人にも当てはまる。自分が行っていると思ってはいけない。まだそう感じるであろうが、考えてもみてほしい。その行いがなんであれ、逆らえぬ力だったゆえそれが起きたのではないのか。この逆らえぬ力の感覚のほうが大きくなると、自身が行為者であるという錯覚はなくなるのである。すると個人は、その力に仕える者でしかなくなる。やがて、個人などないことが全体像のなかで明らかになるであろう。個人とは視点であり、特定の意識における見解でしかない。

死は怖いのだろうか。まだ死なないと思っている者には、死は非現実的で、差し迫った危機ではないであろうか。もし神が、今日わたしに死ねと言うならば、無関心にそれを遂行するだろう。私には何の関係もない話である。この世に残された者たちは狼狽するであろうが、肉体脱げと言われたら脱ぐだけではなかろうか。着替えの度にどれほど衣服を人は気にするであろうか。だから、死は気にするまでもないと私は言うのである。死などないのだから。生命が、どうして死にうるというのか。だから錯覚している人たちを見るときは、ほほえましく思う。安全であることを知らず勘違いしているが、安全だからである。

生きながらにして、この安全な棲家に帰ることができる。その「故郷」を知ることが最大の優先事項である。だから瞑想の何と美しきことか。素晴らしきことか。瞑想を通して、我々は上のお方を知るようになり、そのお方が我であると知るようになる。融合にして高所である。そこは、肉体でこの夢でしかないこの世で働いていようが、意識において切り離されている。また感覚的にも切り離されている。ここがふるさとではないのか。すべての者の内に潜む家である。世にあって世のものにならぬのは、この聖なる空によってである。個人意識よりも、やがて内なる空のほうが強くなるであろう。あらゆる既知よりも、無のほうが大きくなるであろう。そこからすれば、それのみが実在であることが知られるゆえ、すべては安心安全であることが理解されるだろう。これを理解した者を悟った者と言うのである。だから、悟りとは、我を知ることであり、何ら特別なことではないことが知られるだろう。空想好きなマインドだけが、悟りを特別とみなし逃避するだろう。我と悟りは同じ意味である。まだ人格我のほうしか感じられぬという人は、引き続き瞑想と学習と奉仕に明け暮れ、諸体を浄化し、上の媒体として耐えうるような器におのれを仕立て上げ、気づいた頃には高位我と交わり合っているであろう。そのとき、死は、気にならなくなるだろう。今日死ぬと分かっても、衣服の着替えと同等にしか気にならないであろう。真我は、人間が死とか死亡とか名づけている現象とは無関係である。

ニュースを見て、妻の古い友人の死の記事で、死亡したと書かれてあった。ひどい造語に笑いそうになった。死亡したのは肉体ではないのか。いま私は笑いながら書いているが致し方あるまい。肉体の死が我々の死なのですか。我々は肉体とイコールなのですか。肉体を最初から超越していますよと私は言いたい。誰も死なない。死というものはない。あるのは、生命だけである。

目次