個人に生きていないということは、他人も個人として感じていないということである。最初は自分という個人の反応と関係性を失う。こうして外観ではなく本質が私になるならば、姿や形の違う外側の個や分離の結果世界に焦点を合わせていないということである。もし深く感じることなく、定められた個人を本当に自分と思って何とか生きていられるならば、それは地獄である。絶えざる比較があり、優劣があり、それゆえ恐れに支配されねばならないだろう。なんと無意味なことか。結果が結果を変えるという理屈は存在できない。意味不明である。われわれがしていることは、結果を原因と思いなし、コントロールできないことを、なんとかコントロールしようとしている無知のあがきである。誰も、結果と原因の違いを教えない。結果で結果を扱うよう教えている。これでは本質は分からないままである。しかし私は知っている。分からないふりをしていることを。だから自作自演だと言うのである。
左を見ているとしよう。彼は右が見えませんという。なぜ右を向かないのかと聞いてみる。すると、左が実は魅力的なのですという回答なのである。これが自我である。
彼は、本当は左が好きであり、左を見ていたいことを知っている。右を見たいというのは左の方便でしかない。真我実現という話は、自我の与太話である。嘘に生きるのが長すぎて、嘘が本当になってしまい、何が本当だったか分からなくなったのである。彼は左の勢力に支配されている。このような文章を通して、右を思い出させようという自然の作用が起きているが、彼という結果人間は、左に魅了されており、左への欲望と執着がある。この事実を認識する必要はあるが、変えようとする必要はない。あなたは結果であり、原因ではない。その意識状態は、自我意識であって、真我ではない。自我に飽きた、無意味を理解した、繰り返す必要がない、経験はもういらない、などの無関心が強くなるならば、やがて個人と関わらなくなるだろう。個人とは、森羅万象、客観的な外観を自分や他人と分離して見て感じる無知のことを言っているのである。
個人から自由になってほしい。個人の反応とまだ戯れるだろうか。それはなぜだろうか。自作自演を理解する気が起きたならば、解放へ向かうことが可能になるだろう。それまでは、真我実現や瞑想修行などの個人としてのチャレンジを生きることで、真実から目を背ける口実を永遠に作り続け、口実に生き続けるだろう。
繰り返そう。知っているのに知らないふりをしている。誰が知らないふりをしているのか。その個人は、個人が言うところの真我ではない。これを個人は理屈の上では知っているが、個人になお生きるとはどういう理由でだろうか。責めているのではないから、自分を責めてもならない。責めるとは、新たな物語への旅立ちである。こういう、個人の一切の反応に即座に同一化する自動人形状態を断ち切るのは、内なる何かである。これをわれわれは魂と呼んでいる。自我が、魂を認識するようになり、その波動や振動が正しいことを習うことが瞑想の実情である。本質的に、彼つまり原因のみが結果に影響を与えうる。個人という結果は、原因を知らねばならない。コーザル体(causal body)つまり原因体が自分にならなければならない。未開人は肉体に偏極し、平均的な人類はアストラル体に偏極し、一部の進歩した魂がメンタル偏極しており、彼らのうちのさらなる一部がコーザル偏極し、それによってモナドの啓示に至る。簡単に言えば、自我が魂と接触できるようになり、魂と合一し、真我を知るのである。
「どうすればいいのか」という質問を含めて、自我に騙されないように。「私は自我であり真我実現していない」と言う人の話を聞いてやる必要はない。聖人が言うように、実現していないという想念が障害である。人々は、個人に偏極している。個人とは何なのか。理屈を探究せよではない。ただ、本当にその自分が自分でないことを知りたいのかどうかである。自我は例外なく、知りたくないと答える。もしくは、知りたいという嘘をつく。前回書いたように、そういう仕様なのである。知りたいという自我のための口実はいくらでも言える。個人は本当に関係ない。真我ではない。誰がこれを熟考するだろうか。それをさせる力があるだろうか。すべては個人に由来しない。明け渡しとは、これを知った結果である。個人が、瞑想を通し、魂への整列を知り、魂に掴まれることでこれらを知り、彼の存在感によって個人と縁が切れるのである。まずはおのれの口実をただ見ることである。口実に気づくことである。左を見ていたいのに右を見たいなどの嘘はやめることである。嘘つきはわれわれと関係がない。それら一切から自由な内なる偉大さが誰の内にもここに生き、動き、存在していることを知らねばならない。