こういう文章もまた、外側の人間が書いているだけであって、その光景つまり人々の言う行為と、魂そのものである私は無関係である。見た目は、ある人間が書いていても、その光景は世界の一部であって、独立した行為は存在しておらず、これを書かせる力と世界を動かす力が異なるということはない。これを読んでいる人たちもまた全体の一部であり、いかなる独立もなく、いかなる行為も想像や推測の中にしか存在していない。この肉体の行為に以前は個人として責任を感じていたからといって、そういうものがないことが魂において分かったならば、もう全く関係ないのである。すると、ブラヴァツキーの偉大な文章が遥か記憶の彼方から蘇ってきたではないだろうか。
まことの生命は、私達の行為によって生み出されたものではない。生命は実在であり、真理であって、私達とは独立して存在するものである。この、真理に反したようにみえるものはすべて存在しないことを悟るのは、新しい意識であって行為ではない。人間の解脱は人間の行為とは関係がない。条件づけられた存在から自分自身を解放することが人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味においては行為は役に立つ。しかしそれを悟る段階を過ぎると、行為は助けとなるよりはむしろ、妨害となるのである。
H・P・ブラヴァツキー「実践的オカルティズム」p.37
外側人間がすること、できることは何もない。個人という憶測の思考は世の中に無数に存在しているが、この無意味なものと関係がなくなったならば、以前に自分と思っていた肉体の運命や流れとも関係がなくなるのである。宿命とか、世界とか、個人とか、カルマとか、これに自我は巻き込まれねばならないが、真我はそれら非実在とは関係がない。これが、あなた方が言い感じているその自分に当てはめて理解されるだろうか。あなた方に思考や感情が起きるとき、いちいち、それを自分のものと思って騙されているが、実際は無関係である。
自我の生命力が強すぎる。諸体の生命力のことである。いくら川の流れに逆らって生きても、辛くきついだけで、最後はスタミナも力も尽き、流れに身を任せて流されるしかなくなるのである。すると、それが楽であり、流れに身を任せてはじめて真我なる大海を知るのである。これを我々はエネルギーとフォースという言葉で説明している。唯一なるエネルギーがあるだけである。だからその本流に行き着くための最初の兆候が、魂の波動であり、しかもそれは瞑想を根気強く無執着に続けることのできる人ならば誰でも感じられるレベルのものであるため、強調している。その波動、波長、振動、動き、流れ、これが最初は取るに足らない額の支流かもしれないが、徐々に大きな流れとなり、強烈に自我つまりフォース体をおしなべて飲み込み、最後には無限の大海へと溶け込ませるのである。
瞑想をすると人は言う。その後、瞑想できないと人は言う。どうして自我が真我できるだろうか。あえてこのように書いている。自我は真我しようとしている。無理なことをしている。いまは自我感覚しかないだろうが、事実は真我があるだけであることを認め、あらゆる錯覚から目と耳を閉ざし、マインドや情緒との無関係を魂によって貫き、自由になるのである。それは魂がさせることであり、外側人間の努力や、外側人間の人格や行いや評判や歴史とは無関係である。誰でも真我なのだから、あとは自我と関わらないだけである。そして、その方法を教えるのは「それ自体」である。
例えば自我なる初心者は、明け渡しなどと言って、行為者の感覚を捨てようとする。行為感覚がなくならなければならないと考える。瞑想に慣れた魂は、そのような思考を無視する。自分や他人とか、誰の言うことも無視する。どんな想念も真我とは全く無関係だからである。無関係だから思考と戯れないだけであって、悟りや進歩など個人の野心から思考を統御するのではない。
世の中に瞑想する自我は多いが、ほとんどの動機が欲望や恐れや執着である。方法や順序や理論は自我のものであり、自我は自我として行うことのできるものを自我の養分のために求める。だから、世の中で人気の本、お金になる教えは、自我向けのものである。そして、およそ正しいとは思えぬ教えが、瞑想する平均的な自我たちを導いている。正しい教えとは、瞑想の中で、無料で、各々の魂が教えるものである。こういうアドバイスは抽象的だが事実である。いかなる聖人の言葉であれ、外側人間の信じることや、外側人間の話や思考はただ誘惑であり、自我に繋ぎ止めるためのものである。本物は思考の中にない。本物は自我の努力の先にない。こういうのがすべて魂によって止んだとき、あの孤立した統一が訪れるのである。