完全と希望

自我には希望が必要だろう。でなければ自殺してしまうから。このことを踏まえて、建前の話がしばしば必要である。「もしそうならば、それは私を絶望させる」と自我に解釈されないようにしなければならない。しかし瞑想で発見することは、完全性である。何も全く問題がないという本質である。この平和で、安全で、静かで、充足した高所に退き下がるすべを自我は魂に教わり、それが自分だと知り、次にそれすら違うことを理解させられる。魂は意識と呼ばれるものには関係しているが、生命そのものではない。逆に言えば、生命つまり実在は、意識と呼ばれるものとは関係がない。生命は「生き、動き、存在している」と聖書で表現されているように、意識ではなく存在性や意志様相と関係している。だから、最初は自我からすれば魂が神のように思えるが、本質つまり真我は、(魂に対応する用語で言えば)霊である。

自我への教えがあり、魂と融合中の意識への教えがあり、それを超えた教えがある。これらが、同じ文章のなか、同じ話のなかで登場することがあるため、様々な教えを見聞きするとき、自我は混同するだろうと思うことがある。混同し、そして自我への教えとしてすべてを落ち着かせることで失敗の道を経験するだろうと思うことがある。行為感覚と責任感覚を持った努力の物語に自我はどうしても逃れようとする。自分として何か行為をするのが自我である。このような自我に教えるべきことは、まず第一に、問題はないということである。自我のいかなる心配や恐怖や苦悩も、真理においては無効であり、自我はおのれという地獄から解放されれば天国である。そのため、前にも書いたように、色々聞いても興味があるのは、何が問題なのかである。そして、それが問題ではないことを知ってもらうために努めるだけである。というのも、問題がなくなれば、連鎖的に、その人は他の人の問題もなくしてくれるであろうからである。

自我の問題とは、個人的な問題である。彼は霊的な問題と言うかもしれないが、それは個人的な問題である。霊において、また魂において、問題というものはありえない。いま、苦しい人はいるだろう。苦しんでいる最中の人に錯覚で片付けたくはない。その苦しみから完全なる故郷へ引きずり上げたい。しかし、なにせ自分で問題を作り、自分でそれに苦しんでいるという自作自演であるため、誰かにいじめられているなら助けようもあるだろうが、自作自演にあっては、それに気づいてもらわなければどうにもならない。苦しんでいるふりである。その自我は、深いところでは、自分が苦しんでいないことを知っているのである。

いま、天国がある。あえて苦しんでみせているのは個人である。強烈な自分物語に巻き込まれているため、瞑想が助けになるだろう。魂が、静けさというエネルギーを教えてくれる。瞑想を続けると、徐々に静かになり、やがて外側の個人とは関係がないことが理解されるだろう。ただ、チャンネルを切り替えるだけになるだろう。どこを見ているか、どの波長に合わせているかの違いであるが、騒音状態では何も感じられはしない。しかし、自我は生来にして騒音なのであり、この迷いのフォース体を統御するのは瞑想で知覚可能となる魂である。これらは、人類や惑星単位で考えられねばならない。誰か一人とか、どの家庭とか、どの国とか、どの地域ではない。等しく感じられ考えられねばならない。誰は助けて、誰は助けないはない。敵も味方も好きも嫌いもなく、皆が助けられて初めて完成であるため、一なる感覚に個人は魂を通して馴染みゆかねばならない。それは外の個人たちに向けられるものではなく、一つの生命としての感覚である。

ここを知らずして、どのような平和運動も、どのような奉仕も、またどのような教育もないのが本当のところだと言わねばならない。真の奉仕は、自我や物質の波動と共振することではなく、それらの物質を霊の高みまで引き上げることにある。それは明確にエネルギーとフォースの話である。明確に霊が物質に宿っているその意味の話である。我々は、まず瞑想で、自身というフォースの集合体から管理できるように学ぶことになるが、それは自我を魂が管理するという意味である。自我が何かをするのではなく、自我が静かにさせられるのが瞑想であって、いかなる自我の声も無視にしか値しないのである。反省や自己陶冶を否定するという意味ではなく、たとえ過去に殺人を犯したとしても、真理においては許されていることを知ってもらいたいのである。全体の観点を学び、いわば神という脚本は完璧であり、図面や設計は完璧であり、どのような恥ずべき行為とて、いかなる逸脱もないことを知り、外側人間の物語や行為や結果や責任感覚に惑わされず、唯一、真我のみがあることを事実として知らねばならない。多くの個人が、個人的な理由で自分が霊的な高みに値しないと信じている。残念な話である。外の物語は神の管轄下にある。個人は外的な三界の現象であって、実在とは関係がない。存在していないものを存続させているのは個人である。この事実は赦しや慈悲や希望である。それは儚い自我の希望だが、まだ自分感覚が事実なら、真の事実はより良い展望しかないことを知り、個人は幸不幸を交互に繰り返す無能と知り、そこと関わらずに、穏やかに瞑想の日々を重ね、少しずつ、進展と後退という周期の法則のなかで、揺るぎない慈悲、絶対なる赦し、すべてである愛へと融合し、そもそもにして平安、そもそもにして完全である我へと即時に移行できるよう、分離した個は、互いに波動を高め合っていくことが全体なる我の望みにして法則であることを知りつつ、今日もまた瞑想の偉大さに我々は全体として感謝するものである。

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