そのどちらでもないもの

今日、ある人が「嬉しいです」と言った。感じるのは、その瞬間に嬉しくないものを自ら構築した、という残念な認識である。別の例を挙げてみよう。子供たちに野球を教えている男が、試合に負けた少年へ向かって、一試合負けたくらいで落ち込むなと怒鳴っていた。その後、この男は、試合に勝ってどの少年よりも喜んでいたのである。これほど無知な男が何を教えうるだろうか。嬉しいことがあるから、嬉しくないことがあることを理解する必要がある。道の初心者つまり自我が最初に習うことは、相反する対をなす両極(先程の例で言えば嬉しいと嬉しくない)のどちらにも振れることなく、その間の狭き道、剃刀の刃のように細い道、仏陀が語った「高貴なる中庸の道」を見出し、右でも左でもないものを歩むというものである。この平均的な意味はアストラル界に関するものである。したがって、より高位(メンタル界)の相反する二重性を扱う瞑想ができるようになる前に、乗り越えられていなければならないものである。

相反する二重性が存在するという事実を発見したときに弟子が行う仕事は、そのどちらでもないものを発見することである。拒否の法則の作用を通してイニシエートに明らかにされるのは、この中央にある中間の道である。この拒否の法則はオカルト的に言うと「中央にある光の道に入り込んで覆い隠すものを、どちらかの手を使って、自らの道から遥か彼方へと押しやることを可能にする。なぜなら、右側にも左側にも、その光の点された道を求める人にとって安全はないからである」。この言葉は、私達のほとんどにとって実際に何らかの意味があるだろうか。

アリス・ベイリー「秘教心理学・第二巻 上」 p.203

外側の個人は、両極を行ったり来たりすることで自我を養っている。ここに安全はない。「そのどちらでもないもの」に留まることが瞑想であり、瞑想生活である。それは、本来の自分である。真我に留まるとき、何に対しても関係がなくなり、「高貴なる中庸の道を秘教的に孤立させ始める」ことで統一への解消を知るのである。この境地のみが「安全」であり完全である。人間は、結果である外観や出来事に左右されているが、原因を知り、結果を孤立させて原因に留まるならば、もはや世界という苦楽や幸不幸の往復は関係ないのである。

ところが、自我の悲しい性質として、結果を自分と思いなすため、結果から何かをコントロールできると信じるのである。つまり、結果を原因と思っている。どうして自我が真我に影響を与えられるだろうか。自我が真我になれるであろうか。自我を無視することで孤立させることが真我への道であり、それをさせるのもまた真我なのである。したがって、「人は道を辿ることができるようになる前に道そのものにならなければならない」という霊的な格言があるのである。瞑想は、我々が騙されている個人や諸体の反応から孤立へ導き、「そのどちらでもないもの」へと留まるすべを教え、それによって自動的な生命の流れや意志を知り、個人的な独立した自由意志や行為者という錯覚から自由にならしめるものである。こうして分離は打ち砕かれる。

我々が妨害者である。それは悪いことでも良いことでもなく、ただの事実である。妨害者が何を努力したところで妨害でしかない。騒音をさらにかき鳴らし混乱へ導くのではなく、秘教徒が拒否の法則と呼ぶ「そのどちらでもないもの」を発見することが第一である。そのため我々は魂を強調している。個人を無視している。個人は敵ではない。ただ存在しないことを知らねばならない。それは錯覚による一時的な産物であり、これに騙されていてほしくない。いかなる感情、いかなる想念、いかなる反応も、すでにして天国である我々においては無関係だと知ってもらいたい。人間の三重の性質と関わらなければ、もうこの瞬間、即時に我々は超越であり至福であり途方もない平和と愛に喜び生きることを知るのである。ここに何の時間の要素もない。もう、すでにそれそのものであることが、絶対的な前提である。これを曲解するマインドを我々は拒否するものである。

我々は、本当はこのことを知っているのである。本当は知っているという感覚はないだろうか。分からない状態でいたいというのが自我である。その深いところでは、我々は真実を知っているのである。問題になっているのは、ただ個人である。その外側の錯覚である。瞑想を続け、「そのどちらでもないもの」を知り(すでに知っている)、内なる極楽浄土、内なる天の御国、今にも爆発せんとしているその生命そのものをただ知るのである。自我で瞑想するとき、欲望や恐怖が絡むため、何も分からないし感じないことになる。しかし、世の中に出回っている瞑想は、自我瞑想である。なぜなら、自我たちが喜ぶから、そういう教えが流行るのである。自我が喜べないもの、しかしそれを知ったらやがて自発的に従うようになるものが、あらゆる相反する両極を拒否することでその中央に開示されるのである。すでに知っていることを知ってもらいたい。知らないと言わせる自我ではなく、本当は知っているその事実、そのおぼろげな感覚に目を向けてもらいたい。こうして、我々は知っていることを知ることで、何も知る必要がなくなるのである。

目次