厳しさに許しを

多くの人が自分に厳しすぎる。価値観と理想に縛られているのである。間違った厳しさは、柔らかさを失わせ、他人への厳しさへと変換させられる。我々に愛がないのは、自分に対する厳しさゆえであり、自分の多くを許せていないからである。あらゆる段階のつまづきは、この自己中心にあることを覚えておくべきである。自分への厳しさは、自己中心だと気づかねばならない。どうあるべきだ、という自我の決めつけや価値観から自由なときのみ、自分も含め、すべてを許し愛することができるものである。価値観ゆえに固くなっている人には、許しと愛が必要である。それでいいことが教えられるべきである。これを知らないために、善ではないものを表現せざるをえなくなっているのが、悪人と呼ばれる人たちである。

霊的な修行に意気込む前に、以上のことを知り、熟考しておくことで、間違った修行つまり自分のための修行という錯覚に長く縛られずにすむだろう。努力しているのに進歩のない霊的人生を送らずにすむだろう。教師方が忘我を強調するのは、このためである。利己主義によって自らを誤った箇所へ固定しているのである。この軛から自由になれば、もう今すぐに愛や喜びを知ることができるのである。体も軽くなり、実際に軽さを感じ、いかに自分で自分を地へ縛り付けていたかを知るだろう。

ある温厚な女がいたが、この者は、タバコを吸う他人を見るや、人が変わり、絶対に許せないという感情に縛られていた。自分が苦心して過去に禁煙し、乗り越えてきたからである。自分に、タバコを吸ってはいけない、タバコは許されないという価値観を与えているため、他人がタバコを吸うことも許せないのである。自分を許したときのみ、他人を許せるのであり、そうでなければ、霊的な一体感つまり愛や喜びは永遠に遠ざけられたままである。

自分をいじめている修行者の何と多いことか。愛を知らない教師が努力を自我に教えるがゆえ、数分置きに、自分は駄目だ、なぜこんな自分なのか、もっとこうあるべきだ、などと無意識に自分を責め、無意識に誰かや何かと比較している。価値観を構築するのではなく、そういった自我の利己主義から自由にしてやるのが彼らの務めではなかろうか。内なる者と一体化してみてほしい。すべて錯覚だったと知るだろう。何と惨たらしいことを自分にしていたかを知るだろう。自分に厳しいから、分離して、他人を愛で見ることができなかった簡単な理屈を知るだろう。

昨日、「拒否の法則」というものを記事で紹介したが、拒否をそのまま自我で受け止められると、対象を間違いや敵と見なしてしまうと思い、別の言葉はないかと考えた。すぐに別の言葉が思い浮かんだが、それは愛だった。あらゆるものの根底が愛であるため、行いは外から見れば拒否かもしれないが、感覚は愛なのである。このように、常に字義通りではなく、本質はいつであれ愛であり、一体であるため、あまり霊的なことばかり書きすぎるのも、霊的な自己中心に陥らせるだけであると感じた。一時間瞑想するなら、一時間日常で愛や喜びに生きるとちょうどいいだろう。多くの修行者が、ずっと自分の霊的なすべきことに集中している。これでは、愛は訪れないのである。いくら瞑想しても、生きることが辛くなってしまうのである。

愛という瞑想法が、将来、誰かを通して伝えられるだろう。それは自我にとっての内と外に均衡をもたらすものになるだろう。今は、内ばかりが強調されている。瞑想はよくするが、日常ではしかめっ面であり、一般生活に困難を抱えている人は多いものである。それは、より高い段階で再び自己中心に陥っているだけであることに気づいてもらいたい。そしておのれを許してもらいたい。こうして自分が柔らかいときのみ、他人にも万物にも柔らかくあることが可能になることを今すぐ体感してもらいたい。愛は、まことに偉大な解放者である。

目次