子供の頃、死んだら天国か地獄に行くと誰かが説いていた。いま、私は生きているが天国におり、見えるものが地上だろうが、どこであれそこが天国である。人間の見た目は千差万別だが、同じ意識を生きていると考えられている。人間の意識は「その人」に依存しており、万人が異なる意識に生きている。そのため、各々の意識に沿った道と教えがあるのであって、行き着くところは同じでも、至る過程は意識によってまた千差万別である。
真我は私の意識を天国に住まわせ、一つの命、一つの「共同体」に喜ばせているが、出会う人々の意識は地獄を生きている。と同時に、地獄であることの苦しみを感じることができないでいる。人々が知覚していない隠れた悲しみや苦しみまで私には知覚されるが、彼らの表面意識はそれに気づいていない。
突然の病気、と人は言う。ずっと病気を作り続けていた過程に気づかなかっただけである。あなたは今苦しんでいる、と教えてやりたいくらいである。上司が部下をいじめていても、私には、その上司が自身の行為に苦しんでいるのが感じられる。それに彼は気づかず、せいぜい「腹が立つ」とか「苛立つ」とか言うだけである。その後、彼は何らかの不幸に直面するのである。出来事も自身で作り続けていることを知らねばならない。例えば、誰かの波動を見るとき、この波動ではいずれ交通事故や破壊的な事件に直面すると感じることがある。破壊に向かう人というのは多いものである。いくら刑務所を増やし、いくら法や警察や取締を強化しようと、根本的に何の意味があるだろうか。内なる霊によって慰められることを知らずして、真我に喜び生きずして、どうして地上が天国になりえようか。教育とは何か。教える者とは誰か。学校とは何か。あるいは逮捕とは何か。この時代の価値観や常識は、百年後には古いものであり、千年後には興味深い前時代のものであるが、その背後の本物は昔も今も未来も同じ真我である。この変わることのないものの位置から、瞑想者は錯覚を見破らねばならないのである。価値観や、良い悪いや、理想や、希望など、時代の産物である個人の信ずるものに騙されてほしくないのである。
我々の表面意識は多くのものを自発的に隠している。我々は感受性と言うが、それはどういう意味だろうか。地球のこの苦しみ、つまり物質へと身を投じた犠牲による、人類の、動物の、植物の、鉱物の苦しみが知覚されうるだろうか。と同時に、それは錯覚であり、真の背後には永遠なる実在つまり完全なる至福の天国が秘められていることを感じうるだろうか。私は常に、あなたは知っていると言う。あなたは感じていると言う。なぜ、我々は分からないと言ったり、感じられないと言うのだろうか。そして、なぜ私はそう言っている人と関係がないと言うのか。波長を合わせる先を間違っているのである。目先のものにどうして騙されるだろうか。瞑想という長年の忍耐は、目先ではないものを露わにする。この聖なる視力矯正、感受矯正の秘密は何でもない、単なる波長の合わせ先の違いである。だから、私は個人とは関わらない。そのフォースとは関係ないと言う。
外側人間は、真の法に条件づけられており、その「法」は未来の科学となるものである。しかしそれは結果であり、原因ではない。原因への道は、結果の否定である。関わらないこと、無執着となることは、魂との融合の必然である。瞑想し、魂を知り、真我となる。瞑想し、右と左を調和させ、内と外に均衡を取り、そのいずれでもないものを孤立させた結果が、天国の開示である。途方もない喜び。それはすべてとの調和、あらゆるものの統合、この磁力である愛の主のことである。愛はすべてを引きつけ包含する。この流れに抵抗するなかれ。我々は抗っているだけである。おのれを一箇の有限体と思いなすことで、この無限に抗っている。それはある側面からすれば意味のあることだが、解放を求める魂にとっては、意味のないことになりつつある。経験から刈り取るべき収穫は終わりつつある。だから否経験、否行為である瞑想を学んでいるのである。永遠への脱出口を見つけんとしているのである。個人や経験や欲求からおのれを孤立させることである。何とも関わらなくなるだろう。こうして、全一体となり、到底言葉ではあらわしえない完全を思い出すだろう。我々は天国から追放されていなかったこと、そのような神ではなかったこと、すべての地獄の意味と意義を知り、存在として、神として、我完全なりと言うのである。