真我探究。言い換えると、それは自我の探究であり、自我拡大である。なぜなら、人は「知らない」と言うではないだろうか。知っているのに、なぜ知らないことにしようとするのだろうか。なぜ自我で瞑想したり、自我で真我実現を求めたりするのだろうか。なぜ、真我であることを否定した状態、「私は自我である」を出発点にしたがるのだろうか。これらはすべて、真我探究が自我に利用されていることを示している。
質問を受ける。質問者は、自分が知らない人だということにしている。私は、質問を受ける者でも、質問する者でもないため、つまり外的な個人たちではないため、彼が本質において知っていることを知っている。そこで、「知っているという感覚はないか」と問う。するとようやく内を見ようとするのである。しかし、さながら鏡を見て自身を認識できない犬と同じように、見てはいけないものを見ることは、自我には至難である。なぜなら、個人としての自分を愛しているからである。この自己愛は、ただの執着であり、愛着であり、思想である。
犬にとっての悟りは、自我に目覚めることである。これは現状では起こらない。人間においては、真我の認識つまり自我の終焉は可能である。その扉は開きっぱなしである。しかし、扉が閉まっていると仰る。門を叩いて叩き続けて数十年と主張される。叩いているのは、名と形と歴史を所有した個人である。彼は、じかに見えるものではなく、想念と欲求を見ている。ゆえに、マインドとリアリティーの区別がつかないという錯覚を現実と主張される。彼が叩いている門は、自分で想像し、創造した門であって、実在の門ではない。
どうか難しく考えませんように。難しくする癖は、自我が新たな問題や物語を創作しようとするときにのみ起こる。そこでいま一度問いたい。「知っているという感覚はないだろうか」と。もしこの感覚を辿るなら、「私は知らない」や「私は肉体である」という出発点を否定することになる。そのため、主体による主体の認識へと導くのである。人間にとって、一番見てはいけないものは、「私」である。最も破壊するのは「私は誰なのか」という直視である。これをもし頭で考えるならば、哲学者のように永遠に低位マインドで遊ぶことになる。利発にはなるだろうが、霊的には無知なままである。在るもの、実際に存在しているもの、実在をなぜ考えるのだろうか。見ると考えるをなぜ混同するのだろうか。在るは考えられない。
ここを見たとき、すべて自作自演だったことに気づくだろう。自ら、自我を、私自身を好んでおり、それによって自縛していたことを知るだろう。自己所有である。誰が何を所有するだろうか。犬が鏡で自身を認識しないように、そこには拒ませる何かがある。自我が「私」を見ることを拒む背景には、恐怖がある。そう思わないかもしれないが、我々は自我でいたいのであって、真実を恐れている。瞑想中、霊的な超常現象が起きるなら、まず怖がるはずである。彼は、そういうことではない、ちょっと待ってくれと言うはずである。「霊的な体験者」は、この恐怖の反応を知っている。反対に、真理を見ることができる精神は、真我探究や悟りや進化といった思想に何ら興味を持たない精神である。それらの玩具はすでに克服されている。このような魂は、純粋にただ観る者である。彼は単なる視覚である。この意識は、行為者でも、出来事をコントロールできると思っているマインドでもないため、個人の反応からは孤立して無反応である。無反応、無関心、無執着な無垢に留まるときのみ、神性なる変容すら単なる観察の対象であり、恐怖や欲望で妨害されることはないのである。
我々は知っている。実在を考えたり探究したりするのは誰だろうか。このようなマインドの騒動や芝居から孤立したときのみ、三界は無関係となり、実際にはないものが我々を縛り付けることはできなくなるのである。これは方法ではない。状態である。霊的に正しい生活を地味に送り、前進と後退の歳月を穏やかに静観し、瞑想という日々をただ内観し、静けさという波動に反応できるようになり、静けさを好むようになり、これにより霊的に精妙な感受性を発達させ、識別能力に目覚め、その識別の主である魂として全方向から孤立した無反応な状態のことであり、分離して誰かが何かを引き起こすという方法論ではない。それはしかし逃避ではないため磁力であり包含である。それは私は万物であり万物は私であるという愛である。この地上に蘇る喜びの天界には何の恐怖も悩みも苦しみもない。この天界にいながら地獄を見せるもの、つまり我々が所有し、手放そうとしない愛着物は何であろうか。それだけは手放せないと思わせるものは何だろうか。我々は鏡を見るだろうか。乗り越えうるだろうか。我々は答えを知っている。なぜなら、我々が答えだからである。