全体で一つの働き

人間関係について質問があった。答えはその言葉自体が示しているだろう。分離しているからである。どのような個人も存在していない。錯覚に焦点を合わせている限り、あらゆる「関係」は対立構造にある。それが統一に解消されるまでは、真の調和というものはありえない。だから、人間関係で傷ついたり、罪悪感を抱えたり、怒りや恨みや友愛の感情を所有したりすることは自然な流れである。この種の解釈に対しては、それから逃避しようとしないことが肝要である。自我とは、真我からの逃避である。だから自我が見られるならば、真我は明らかにされるのだが、これが世の中にはまだ知られていないのである。見るとき、そこには責められるべきものは絶対にない。見ることは理解することであり、理解は必然的に許されなかったものを許すことである。何であれ、「それでいい」という態度が自我には打撃になるだろう。自我は、好きと嫌いの間を行き来することで物語を続けているが、そこに”生命を吹き込む者”がいなくなるならば、自我は存続しえないのである。だから、人間関係で悩んでいる人、あなた自身に騙されないことが重要である。自我であるあなたに、あなたは愛着があるのだろうが、その者で分離して生きていても辛いだけだろう。個人としての経験に飽き飽きしたならば、自分は無視すべきである。外へ目を向け、全体と合一すべきである。

手順としては、瞑想で内なる魂を見出し、魂と融合するにしたがい、静かになり、見えなかったものを見ることが可能になる。それは肉眼の視力の話ではない。いわば、知恵的になるのである。つまり直観的になる。それが内的視力である。すると、内と融合できる度合いに応じて、外とも融合できるようになるのである。そのとき、分離はマインドの中にしかなかったことが知られるだろう。どこにも個人など実在していないのである。実在は一つの命である。唯一なる生命である。自分が個人でなくなるならば、外にも個人はいないのである。唯一なる境地が、すべての個人の悩みや苦しみの解決法であるが、そのために瞑想するならば、個人のために瞑想しているのである。逃避瞑想である。それはそれでいい。気づいていて、何も責めず、知恵的に構造を理解し、ただ必然だったものを必然であらしめるならそれでいい。それは素晴らしいものに変容するだろう。抵抗しないなら、自我の生命力は弱くなる。自我の好き嫌いに耳をかさなくなるならば、それが切実な意見ではなくなるならば、どんどん自我は弱くなる。そして真我の感覚が強くなる。

苦しむ人は幸いである。苦しむ能力のない人は、まだ感受性の発達途上にあり、それゆえしばらく自我の物語を続けるだろうが、やがて自我で生きているならどのような瞬間も苦痛であると主張し始めるだろう。人々は苦痛を嫌がるが、その真価は人類に知られぬままである。苦痛がないなら、人はずっと自我である。物質と霊、自我と真我の対立の知覚が苦痛である。すべて我が内にて知る必要のあることは知ることができる。まだ知る段階にないものを欲望で求めても無理だが、現実の目の前の問題に関しては知ることができる。なぜなら、真理は想像や理想や他人の言う話の中にはなく、目の前にあるものだからである。これは大事な話をしていますよ。書物ばかり読む人は、その話の中に生きており、目の前が見えなくなっている場合が多い。外を歩いていても、教師が教える話を自身に応用することで精一杯であり、空や花々や川の流れの美しさに気づくことがないのである。なんという苦しみだろうか。真我実現とは、個人のための話では決してないのである。

巨大で精緻な一つの機械を想像してほしい。大きな時計でもいい。その中の一つの部分が壊れるならば、機械そのものが故障するのである。人間は、このように部分でしかないのに、独立していると思いこんでいる。だから辛いことに気づかねばならない。全体で一つの働きをしているのである。その機械が時計ならば、真夜中を指すこともあれば明け方を指すこともあるだろう。世界もそのようなものである。良い時代と悪い時代が交互に訪れる。しかしそれは現れであって、機械自体を動かす力ではない。真我とは力である。エネルギーである。生命である。それは分割しえないものである。ただ目を閉じ、自分の発達とか霊的な話とか自我の頭の話に耳を傾けるのではなく、それらが静まり返り、全体としての命である我に焦点を合わせるならば、もうそれだけである。ここで言葉は終わりを迎える。詩人が言ったように、どのような言葉も「腐れ茸のように口のなかで崩れ落ちる」。

人間関係による苦しみという切実な質問。まだ自我が強いなら、あらゆることを恐れねばならないだろう。自分が個人なら、敵や味方といった個人的解釈もありえるだろう。全体で一つの働きをしていることを思い起こさねばならない。それは起こる必要があって起こっている。そこになぜ独立して介入しようと抵抗するだろうか。すべて理解し許すことである。許せないならば、許せない自分を許すことである。我が内にて許せないことは他人にも許せないものである。もし、一つでも許せないことがあるならば、合一できない。したがってそれは個人の為せる技ではない。我々が瞑想を通じて魂と融合し、完全性の中に全部許す、もしくは全部どうでもよくなるならば、個人の世界は乗り越えられるだろう。これは難しい話でも神秘的な話でもない。私にそれは可能ですかといつも言われる。自我がどうして到達するだろうか。その人がすべての独立した努力つまり抵抗が無意味であり、それが自分の意志によるものではなく、あるいは自分の行為でもないことを知るならば、徐々にそうした個人という誘惑は去るだろう。「私に」という発想とは疎遠になるだろう。こうしてすでにして在ったもの、人々が真我とか神とか真理とか言葉を当てている荘厳な何かが立ち現れて、我々を掴むのである。それを知った時に詩人が口にした言葉が、先程のものであり、言葉ならぬものに我を失ったのである。

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