マインドや思考の統御について。これは、情緒や欲求といったアストラル性質が静まらないかぎり難しい。それらのフォースを識別できないとき、われわれはその衝動の犠牲になって、霊的欲望に捉えられてしまう。一般的な欲望と霊的な欲望に違いはないだろう。われわれはそれが見えなくなる。欲求や逃避に反応を示さぬ静穏なアストラル体に仕上げられたとき、思考や想念つまりメンタル・フォースの問題に集中できるだろう。
飛び級はない。飛び級をさせる覚者というものも存在しない。現実は挫折者だらけである。誠実な瞑想者は、個人的な悟りや解脱やイニシエーションやサマーディーなどに興味を持っていない。それは初心者が求めるものである。なぜなら、そのような餌を蒔かねば、世の中の欲望に浸っている兄弟姉妹を振り向かせることはできないからである。最初だけ霊的欲望は許される。夢のような観念で遊んでも許容される。遥か遠くの達成に逃避することも一時的には見逃される。しかし、われわれが誠実であるならば、おのれを見て、やがてそれが間違いであることを理解するのである。
ゆっくりとした前進は嫌われる。着実さは嫌がられる。地味な日常の努力は軽視される。当面の問題は見向きもされない。欲望そのものであるわれわれに都合の良い教えは好まれる。遠くをわれわれは見ていたことを知るのである。現実は目の前なのに、この「私」であるのに、見ているのは欲望、もしくは恐怖、そしてそれが作り上げた観念であったことに気づくのである。
通常、われわれが行っている瞑想は、自我による自我のための欲望瞑想である。魂との接触、アストラル体の魂への服従、これらがマインドを統御するうえでの基本である。欲望体であるアストラル体が本当に静まっているならば、霊的野心はなくなっている。現実世界が苦しいから、霊的世界に救いを求めるという欺瞞もなくなっている。欲望や恐怖に取り憑かれている者はわれわれではない。精神だけが好き嫌いを主張する。自我だけがおのれから目を逸らし、悟りや純粋意識や覚者といった逃げ道を探し求める。背後の観照者はただ見ている。われわれが誰にも助けを求めず、一人おのれと真剣に対峙するとき、多くが見られるだろう。多くが知られるだろう。われわれ自身が知られたとき、マインドはおのずと静かになるのではなかろうか。そのとき、われわれは弱き者ではありえない。
瞑想するのは魂である。…瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、…魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。
アリス・ベイリー「魂の光」 p.402