ラマナ・マハルシ– category –
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トリック
人間の普通の意識から、魂の意識に入るという、アンターカラナという概念で言えば前半、ここについて書き続けているのは、この基本に関する情報が少なく、そのため人間の普通の意識で修練し、行き詰まっている人が多いと感じるからである。一方で、アンターカラナの後半が完了した聖者と見なされる方々の情報は容易に手に入るため、基本が知られぬままの瞑想が自我に弄ばれており、ありのままの神性が霊的な欲求の対象となり果て、それがかえって到達できない瞑想者としての苦しみを生み出す要因になっているから... -
瞑想と雑念
何年瞑想しても、雑念に振り回されて集中できないという問題について。本質をつくために逆に質問する。なぜ集中しないといけないのか。なぜ雑念に振り回されてはいけないと思うのか。思っているのが個人だと分かるか。問題とみなしているのが自我であり、それが個人的な感想だということが分かるか。他人や書物に感化されて、霊的な何かを求めており、それを入手するために瞑想しようとしており、霊的な獲得のために雑念をどうにかしようとしている。これが初心者の自我瞑想である。これは瞑想ではない。何年かけ... -
聖者との交わり
退屈で面白身のない毎日。朝起きると苦痛。起き抜けの不快を忘れてもっと寝ていたい。しかし、楽しみがある日は、喜んで起きるのである。明らかに、自身の感覚の原因は自身である。マインドの態度、姿勢、解釈に由来している。ここに何かヒントはないものだろうか。というのも、つねに幸せでいてもらいたいからである。 不快は喜びに変わる 起きて不快感を覚えた場合。平時から静かな精神であれば、その不快感からけっして目をそらさず、不快感をただ見るだけで、喜びに変わることを知る。もともと在った魂の喜び... -
明け渡し
自我を放棄する覚悟が必要だ、と彼は表現した。ラマナ・マハルシの「本」を彼は学んでおり、いわゆる「明け渡し」を実践しようと試みている。そのような覚悟がなければ真の明け渡しではなく、真我実現は不可能だと言うのである。本が与える知識を所有するときに起こりやすい錯覚である。 明け渡しは方法ではなく状態ではなかろうか。つまり、彼の言う「真我」が、彼の想像する「自我」に現れて、彼が所有していた想像の産物といずれも関わりをもたせなくなった状態である。状態を実践できるだろうか。落ち込んでい... -
私は誰か
なぜなら、自己意識は徐々に移行してゆき、ついには小さな自我を超えた彼方にある「それ」に中心が定まるからである。……あなたは自分自身に「私は誰か」と尋ねなければならない。この探究が、最終的にはあなたの心の背後にあるそれの発見に導くだろう。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.107 真我と接触し共存している意識が「私は誰か」とは問わない。真我であることが分かりきった意識は真我に没頭しており、生命力を持つ残りの障害(ヴァーサナー)を調整するその自動作用にただ安らいでいる。この段階で瞑想... -
努力なき瞑想へ
想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは想像している。それは本当ではない。終わりは来る。もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力をつづければ、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っていくのがわかるだろう。この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.103 この引用には注意が必要である。そのまま受け取り、自我で強引に努力し続けるならば、脳に危険なダメージを与える可能性がある。「終わりは来る」。そ...