瞑想– category –
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負け戦について
人々は「教えてください」と言うが、実際は「知りたくない」ことに気づいていない。知ったら困ってしまうことを本能的に知っているだけである。また人々は「助けてください」と言うが、本当は「助かりたくない」ということ、助かったら終わりだということ、ゆえにいつも助けらる側に身を置いていたいのだということ、この自我の本性に気づこうとはしない。したがって、やたらと嘘くさく、芝居じみている。真に知るような者、助かるような者とは、これらの芝居や自作自演や自己劇化への自我の欲求よりも、苦痛が上... -
無敵と難敵
瞑想中に何かを見たと言う人は多いが、それを見ている者が誰なのか、何なのか、その主体にのみ興味を持ち始めるのは、多少、瞑想の熟達が必要なのだろう。というのも、「見る者」と「見られるもの」がある場合、そこには苦痛があることに最初は気づかないからである。せいぜい、霊的な本を読んで、「私は誰か」と考える程度である。つまり、彼は「考えている」。考えることすら、考えることを可能にさせる主体なしには不可能である。すべてにおいてこれは適用できる。ラマナ・マハリシが、真我から離れて何も存在... -
善
正しく生きよとは、正しさで在れという意味である。媒体の行為は二次的なものであり、神との整列、私は神であるという境地、この一体性が臨在であり、この真我もしくは神我が正しさにして善である。だから正しく生きるとは、神で在るということであって、行為ではなく存在の状態である。このとき、すべての苦難、すべての問題、すべての謎や不可解は乗り越えられ、完全性しかありえぬこと、本物は最初から我であり、真我はそもそも正しさであり善であることが理解されるだろう。 初学者は、外的媒体における行為や... -
キリスト教徒の女
このとき、不意に一人の男が眼前に浮かび上がってきた。父親を憎んでいる恨み深い男。彼がまだ若い時分、受験のために勉強が必要だった。しかし彼の父親は勉強より宗教、合格したいなら拝めばいいの一点張りで、彼の勉強時間をそっくり日蓮か親鸞か、父親の信じている仏に向かって拝まされた。歯向かえば殴られ、前歯二本を折られている。積年の恨みは根深く、この頃のありとある話を、この男は、もはや弱りきった父親の傍らで皆に話すのが常だった。「拝めば受かる」という馬鹿げた言葉を連発し、「キチガイ」の... -
アーティスト
今日は、連続して二つ目の記事を書こうか。どのようにしてこの男は記事を書くのかを書こうか。彼は書く前に、何を書くのかを全く知らない。何かを書こうという意図を持つことは基本的にはない。なぜなら、意見を持っていないからである。この世で何かを伝達するためには、意見的な体裁に見せる必要があるが、私じしんは、いかなる意見からも自由な状態に在る。したがって、無限に書くことが可能である。 しばらく前に、自称アーティストを名乗る肉体が、私に「ネタがない」と言った。この者は、いわゆる一発屋であ... -
山田太郎
私は、これを書いている男ではないことによって、あらゆる難を逃れている、という文章から再び始めよう。個人意識は、究極の災難である。それは本物が分からない意識であり、偽物を本物と思い、また見なしている極度の苦痛である。「私」というものは想像である。その他、目に映るあらゆる現象や形態も、根本的には想像の産物である。いわば、神のマインドの結果である。そこでは、あらゆるものが分割されており、分割されたものそれぞれに、意識が宿っている。意識は純粋だが、意識をマインドがオーバーシャドー...