瞑想– category –
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うわの空――聞く態度と素養
われわれの多くは、聞いていない。誰が聞き、誰が理解するのかを、自身に問うていない。 ゆえに、聞こうとしても、聞くことができない。聞くことを阻害する個人を介入させている。 聞けないことは、語られる言葉の問題ではない。心の深部に、話を遮る膜を持とうとするからだ。それは、自己防衛のための自我の膜である。 知性の声、情緒のさざめき、その両者が織りなす反応の網が、語られたものの核心に触れる前に、それを包み、歪め、吸収する。 語られた言葉を理解しようとした瞬間に、それは既知に照合され、既... -
一箇の私が見る夢
質問 古代ギリシャ哲学の小宇宙と大宇宙の関係、またはヴェーダが説くアートマン=ブラフマンの解釈は、単に人間も宇宙の一部という詩的表現ではなく、人間を通して宇宙そのものに至るための霊的マップであると捉えるべきと思いますが、いかがでしょうか。また、『リグ・ヴェーダ』第10巻90番にある「「千の頭、千の眼、千の足を持つプルシャ…この全世界は彼の身体の一部である」などの表現も、これは逆にいえば、人間の身体(小宇宙)にも宇宙の全体(大宇宙)が宿っているという理解を暗示しており、人間を通し... -
遠くへは行かなくていい
「日本の中で最も霊的調和が顕現している美しい町」という問いは、魂が故郷を求めるときに、時として外の世界に投影されるかたちで現れる。その思いは美しく、内なる調和を希求する響きでもあるが、やがて内へと還っていく。たとえ一時的に癒やしをもたらす場所や人に巡り合ったとしても、しばらくすれば、かつてと同じように周囲は堪えがたいものになり、良き人と思えた誰かも、美しく清らかに思えた佇まいも、やがてその影を見せるようになり、風景は静かに色を変えていく。あたかも、その景色があなたを拒むか... -
希望なき者
個人は、絶望的である。だがそれでよい。個人は、その性質の絶望性をいつかは知らねばならない。 ところが現実には、個人は希望に生きている。未来を信じ、向上を信じ、探求を信じている。そして自由意志を信じている。そのような希望は、個人の背後にある実在を知らぬままに抱かれる個人の私物にして無知の産物であり、実在がまだ臨んでいないために、個人は個人で在り、且つ個人で未来を描くことしかできない結果でしかない。 その状態で絶望が訪れれば、個人は壊れる。自殺とは、背後の光が訪れていない個人に... -
真の平和
道の終盤で、弟子は、全ての根本的な苦痛の原因が、分離感にあることに気づく。この気づきが融合へと導き、一体感の境地を弟子に教える。私の中に全てが在ったのである。全ては私だったのである。これは文字通りである。いかなる二元も、そこでは私の中に愛として一つになる。天上的な至福の鍵は、私の中に全てを私として知ることにある。通常、一体性は誤解されて認識されている。つまり、世界の中の全てのものとの一体性、というものである。私の体験では、世界というイリュージョンを認めた上での一体感という... -
退路断たれる
自我や心は、性質上、自身を欺くものであるため、関わってはならない。また、それらと自分を同一化せざるをえない長い初期段階においては、自我という自身を条件づける力の弱体化がいずれ起こることを知り、日に一時間ないしは二時間、瞑想を続けるよりほかにない。どういう瞑想がいいというものはなく、どのような瞑想が瞑想ではないかに気づくことだけが重要である。周期的に強弱を含み送り出されてくる上からの波動とすでに接触しているならば、諸体の波動をその波動と一致させることが目標であり、それが調和...