瞑想– category –
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王国
弱い自我が強くなりうるだろうか。自我は、一つの世界しか知らない。われわれが見ている世界である。その中に存在すると考えており、その中で彼や彼女といった個別の人間として世俗的もしくは霊的な理想や幸福を達成するのが目標だと考え生きている。実際は、生かされている。動かされている。この外なる世界で、彼は自分が独立した存在であると感じ、自身という意志決定機関の長ないしは神としておのれを任じ、自由意志を喜び、自由行為をしているが、彼はただ世界というホログラムの一部でしかない。風景を見て... -
質問と記憶
最近、努力が減っていき、行為の感覚も弱まったように感じています。……(真我覚醒した聖者の状態に関する書物からの引用や、ラマナ・マハルシが努力が必要であると言っているなどの話が続く)……よって、自我に努力が全くいらなくなるということはないはずです。 これらはすべて、自我の側からの解釈です。つまり、単に努力している自分という想念や感覚があり、それらと誤ってご自身を同一化しておられるだけです。つまり同一化さえなければ、あなたの問いは生まれませんでした。 簡単に説明したいと思います。元... -
大丈夫
少しでも苦しいと感じているなら、それは霊的な道からそれる。少しでも誰かに責められていると感じるなら、その苦しみは自身の何らかの間違いを見つけるチャンスである。苦しみは、決して「お前を変えよ」とは言はない。学びは、浄化とか自己改善とか言うけれど、それをやるのは自我ではない。自我で自身の改革をしようとする努力と正しい性格構築の時期はあるだろうが、それは、自我つまり結果の世界では改善は不可能だと知るためのものであり、内なる自己だけが間違った自我を治療しうることを理解するためのも... -
高位の行為
なぜ人は「する」のか。強迫観念と言ってもよいだろう。「する」必要がないことを人は知らない。知らないから抵抗する。流れに逆らう。なぜなら、「自分」がしているという感覚、しなければならないことがあるという信念を生きているからである。例えば瞑想を「する」。瞑想は行為や行為者から自由な状態の彼方にあるが、われわれは自分として瞑想する。「する」は、何であれ真我の否定である。そのような無知の根底にある諸悪の根源は「私」という一人称感覚である。分離意識である。この状態からわれわれは雑念... -
トンネル
地元でしくじり、追われるはめになった。くそいまいましい。積み上げてきたもの、全部捨てて逃げるよりほかになくなった。死ぬ気はない。隠れる場所を探したい。隠れつつ、"隠れた場所"や"隠れること"が仕事になり、少年院時代の集団寮のようなものでよいから棲家付きで、飯を食って生きていけるなどという、都合の良い場所はないものか。外国人向けの人材派遣で一山当てた男の顔を思い出した。この男はおれに借りがある。連絡してみると、いくらでもそんな仕事はあるという。手っ取り早いものを一つ紹介してくれ... -
知
知るとは、特定の解釈に対する所有行為という無知である。この所有が行われると、知ったものは知識となる。そして彼は知識に仕え、知識に動かされるようになる。これを我々は盲目と呼ぶ。人間が知るためには、彼の理解できる位置まで、元は純粋であったアイディアが歪められねばならない。彼という経験体を通過し、私的な解釈へと堕落させられねばならない。アイディアとは、ブラヴァツキーの言葉を借りるならば、「それ自身では存在できないが、形のない物質に姿と形態を与え、顕現の原因になる無形の存在である...