瞑想– category –
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喧嘩中
瞑想者とは、瞑想に救われる者である。瞑想を通して、低位我は高位我に救われ、意識は自身である高位我へ焦点化されるようになり、低位我との関係はそこで打ち切られる。瞑想を始めた時の者はいなくなり、引き上げられる。皆、何かしらの理由で瞑想を始めるが、それは通常、自分や人生への不満や絶望や苦痛といった、救われねばならない状態からのものだったと思うのである。この瞑想を始める者は、やがて瞑想に救われ、どのような苦悩も無くなり、すべてが美と喜びに変わったことを知るだろう。どのような人間も... -
いわゆる悪の華
ぼちぼち忘年会を始めているのですが、行く前は「嫌だなぁ」という気持ちです。そして周りに合わせる程度にお酒を飲んでいると、ついつい楽しくなってきて、強いお酒を人一倍飲んでしまい、翌日はとても苦しい二日酔いを体験することになります。何と言うか、うつ病のような気分に落ち込んでしまうのです。あなたは以前の記事で、二日酔いのようなものは簡単に治療できると書いていた記憶があるのですが、どうすればいいのか私に理解できるように教えてください。 二つの方法がある。二日酔いの苦痛を味わわせてい... -
至るという病
至る方法はあるのでしょうか。ないのでしょうか。ないのなら、人間は途方に暮れます。 途方に暮れる人と真のあなたは何の関係もないから問題ないのだが、これが分からないという無知が問題を作っている。「至る方法」と言うとき、あなたは内ではなく外へと向かう。つまり、低位我で何かを行っても、それは低位我の世界に属し、よって低位我を拡大するだけであることを、少なくとも理論的には納得しないといけない。それより、「至る方法」が必要なのはなぜなのか。何をあなたは恐れているのか。何から逃れんとして... -
第三の目と魂の目
「我々にできることは気づいていることだけである」とあなたは仰いました。そして私は気づこうと心がけました。そしてそれが間違いであることに逆に気づきました。なぜなら、そこには新たな努力があり、必然的に葛藤や抵抗による苦痛を伴わねばならなかったからです。そこで、「気づこうとすること」と「気づいていること」は異なる状態だと結論づけねばなりませんでしたが、いかがですか。 そのとおりだが、少し浅い段階で「結論」へ逃避しようとしている。次に見るべきは、「気づこうとする行為」によって生じた... -
寒気
私はひどい冷え性で、最近とても寒いのです。それで暖房器具や防寒着など、可能なものを取り揃えているのですが、それでも寒いときは寒いのです。この寒さに困っているとき、あなたの前回の記事を読みました。「あるものはない」という趣旨だと思いましたが、それはどれくらい現実的な話なのでしょうか。私は、「寒さは在るか」と自分に問いかけ、寒さを見てみようとしました。すると、寒いだけでした。なので、あなたの意見は、私たちの現実の話ではないと思います。 私が寒さを感じたとする。そして、その「寒さ... -
修正される自己に我々は興味を持たない
誰かを批判したくなるとき、そういう自分に対してどうにかしようとすること自体が逃避である、という趣旨の記述について疑問に思ったので質問します。自己修正が正しい修行ではないのでしょうか。なぜそれが逃避になるのか理解できないのです。 まず、すべての人に対し、自己修正の無意味さを述べたわけではない。そのような時期はある。それは低位我の意識しか知らない時期に行われることである。瞑想は、意識を低位から高位へ引き上げるものであり、いったん自身が低位我と関係ないことが理解できたならば、批判...