瞑想– category –
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師弟関係の超克
質問:弟子の区分について 見習いの弟子や受け入れられた弟子という区分についてですが、真の覚者はそのような区分を否定しています。アリス・ベイリーの著作はいくつか目を通しましたが、ラマナ・マハルシのような覚者の教えとは根本的に相容れない教えであると感じます。この点について見解をお聞かせください。 「見習いの弟子(Probationary Disciple)」と「受け入れられた弟子(Accepted Disciple)」という概念は、ジュワル・クール覚者が整理した概念である。 見習いの弟子とは、霊的な道に入ることを目標... -
超心理学
心理学は何をしてきたのか フロイトの精神分析、ユングの元型論、そして現代の認知行動療法(CBT)など、心理学は長きにわたって心の働きを解明しようと試みてきた。心理の解明によって、心理が作り出した問題を解決しようとしたのである。 フロイトは心を「意識・前意識・無意識」に分け、特に無意識が行動や感情の根底にあるとした。ユングはさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」を区別し、集合的無意識には、すべての人類が共通して持つ心理的なパターンである「元型(Archetype)」が含まれると考えた。... -
教えからの自由
聖者の教えという檻 ラマナ・マハルシの朗読動画に、「彼の教えは金言だが、達成する者は稀だ」というコメントが寄せられていた。しかし、教えに生きる限り、自らを教えの枠に閉じ込めていることを、いずれ悟らねばならない。教えを頭で噛み砕き、心で咀嚼し、それ自体を信仰し帰依することは、最初の段階では必要だが、実践においては完全な障害となる。実践とは、「本物」からの教えそのものであり、ラマナ・マハルシはそれを「沈黙の教え」と説いた。この意味を理解できない者のために、彼は渋々ながら概念の檻... -
原初の私
内在とは何か 個人意識の観点から、「内在」や「内的」といった表現を用いることはありますが、その「内在者」は実際に私たちの内側に存在しているのでしょうか。「私」と「内在者」が分離なく同一のものであるならば、内と外という関係性は果たして成立するのでしょうか。この世界を眺めつつ二元の視点に立つとしても、まず内と外の関係は逆転しなければなりません。肉体や心の内側を「私」とするのではなく、まず「私が原初である」という意識・認識に立ち返ることはできるでしょうか。確認してみてください。も... -
分離を溶かす意識の理
分離意識と融合意識の境界 分離意識と融合意識の狭間を見極めてみよう。本来自然なのは融合意識である。それは何も無理をしていない意識であり、無理をしようとする者すら存在しない意識である。では「無理」とは何なのか。それを理解するには、理(ことわり)に対する姿勢を見直す必要がある。 「ことわり」とは、神秘的に言えば「神の法則」、物理的に言えば「宇宙の秩序を形成するエネルギー」である。エネルギーは万物に浸透し、万物はそれなしには生きることも存在することもできない。この意味で、エネルギ... -
弱い心でいい
https://www.youtube.com/watch?v=0ce1JxES8uo&t=359s&ab_channel=%E7%9C%9F%E5%A4%A9 多難な道を迷い生きれば心は壊れる 人間の心は簡単に弱くなります。摂取する悪い飲食物、諸体に条件づけられた悪いフォース、バランスを欠いた五大元素の影響、これらの習慣と蓄積によって、不健康と不健全が心を脆弱にします。アルコールや薬物は人を鬱状態や廃人のようにし、他者に対する怒りや恨みといった感情的な思考、あるいは満たされない欲望や強烈な恐れを安易に受け入れる習慣は、カルマ的に同じような現象...