瞑想– category –
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肉体の病気より神の奉仕
しばしば肉体的苦痛を観照することが私に起こる。なぜなら、快楽と苦痛を登録する肉体と意識という道具がまだそこにあるからだ。私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。少し前、私はその苦痛を観照していたが、あなた方がここに来たらなくなってしまった。人は意識の中に安定すると、ただ喜びだけでいっぱいになる。私はその意識に安定して喜びでいっぱいだったのだが、突然病気が現れたために苦痛がやってきたのだ。あなたが意識の中に安定して、どんな肉体的不調もないかぎり、どんな苦痛も経験しないことだろ... -

災いの原因は常に同一
病気がどういうものなのか、その苦しみを分からずに語っているのではないかという問いかけを受けたとき、次のような疑問が浮かんだ。私が病気になりえないと言うのは、真我という永遠なる無病と一体であり、その本物のみが我であることを知るからだが、果たして、肉体をあえて病気にしてその苦しみを味わうことが私に可能であろうかと。病気の原理が分かるということは、あえて病気を受け入れる方法も理解していることを意味する。私はある人を治療しながら、その病いつまりカルマを可能であれば引き受けたいと思... -

病気とカルマ
また身近な者が風邪をひいて苦しいと言っている。治せる力が内在することをまだ知らないし、治し方もまだ分からなくて苦しんでいるのである。私は、簡単に風邪などが治ってほしくはない。つまり、なぜ風邪という現象が生じたのか、何が原因であり何ゆえの風邪であるのかを突き止め、原因と結果を結びつける能力を発達させ、自らの非霊的な弱点や態度が何であるのかを学んでほしいのである。でなければ、繰り返すだけである。 その方を私が見る(診る)ならば、ここしばらく、ずっとネガティブな思考に生きており、... -

魂とマインドの瞑想について
個我を超越した証しである喜びや至福を知る手段として日々の瞑想がある。ゆえに再び、瞑想そのものについて語りたいと思う。一般的な瞑想の定義は、何らかの種子に対してマインドを固定させ続けるといった集中に関するものである。私はそのようなことは一切しなかった。言い換えると、それは真我への直接的瞑想ではなく、自我とマインドが行うことである。次の引用を再確認してもらいたい。 瞑想するのは魂である。瞑想は積極的な活動であり、消極的な状態ではない。瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で... -

喜びについて
ジュワル・クールが或る弟子に対して、喜びについて回顧するよう勧め、三十の意味深き文章を与えた。これを紹介することが有益であると感じるため、ピックアップして列挙し、それぞれに解説を加えたい。というのも、我々が歩む霊的な道は、最初は苦痛に満ちているが、その夜明けには常に喜びに迎え入れられるからである。それは、我々が困難な道を歩みながらも、同時に喜びに溢れ、愛や喜びによって困難が征服されているという意識を達成しなければならないことを意味している。 2. 私はどのような喜びを感知して... -

神に酔う
失敗しても許すのは神だけである。悪いことをして帰ってきたとき、これ以上ない優しさで抱きしめてくれるのは神だけである。この世で裁かれた人を裁かないのは神だけである。この世で助けられるに値しないとみなされる者を助けるのは神だけである。神とは真我であり我々自身であるが、自我にとっての最初の神性、神を表現するものは魂である。彼によって人類は救われる。キリストがその象徴でしかない魂である。このお方とはいつであれ瞑想で出会うことができる。とはいえ、魂はそれ自体で存在できるであろうか。...

