瞑想– category –
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意志に定むる魂の弓
魂の発見以後 魂を見出した後は、魂として存ることが目標になる。魂が新たな自分であるためには、マインドの活動を滅し、存在そのものへの自然な集中に意識を焦点化し続ける必要がある。これは、融合を安定させるための時期であり、これにも通常は何年もかかる。この時期が長くなるか短くなるかは、魂に対する真剣さに依存する。 前の記事で、意図的に「気づきに引き戻そう」とするならば心の強化になると書いたが、この段階の内なる存在への意識の引き戻しはその逆で、心の弱体化にしかならない。まず、本物――ブ... -
瞑想は、あなたの努力とは無関係である
瞑想は努力でも人格磨きでもない あまりにも熱心に、精力的に、猛烈に、霊的な生活に励まないようにしなさい。霊的な生活とは存在の状態であって、達成の状態ではない。それは、正しい方向を向き、そちらに方向づけられている状態であって、ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力ではない。……我が兄弟よ。どうして自分自身についてそれほど考えるのですか。「悪い自分だけでなく、善い自分も排除して、キリストだけが見られ聞かれるようにしよう」という言葉を自分自身に対して引用したことはないのです... -
覚者の言葉が響いても、誰も悟らないのはなぜか
新時代の悲劇 かつてこれほど多くの人々が自己探求に心を開いた時代があっただろうか。書店には精神世界の書籍が溢れ、覚者の言葉は広く流布し、瞑想や霊的な探求が一般的な関心事となった。しかし、もしこの時代においてすら、真に達成する者がまず存在しないのだとすれば、何か根本的な誤謬が存在していることは疑いようがない。 多くの者が覚者の書を貪るように読み、数え切れぬほどの金言に心を打たれ、それを糧にさらに百冊の書を読み漁る。熱烈なまでに到達を切望し、日夜瞑想に励み、求道の歩みを止めるこ... -
師弟関係の超克
質問:弟子の区分について 見習いの弟子や受け入れられた弟子という区分についてですが、真の覚者はそのような区分を否定しています。アリス・ベイリーの著作はいくつか目を通しましたが、ラマナ・マハルシのような覚者の教えとは根本的に相容れない教えであると感じます。この点について見解をお聞かせください。 「見習いの弟子(Probationary Disciple)」と「受け入れられた弟子(Accepted Disciple)」という概念は、ジュワル・クール覚者が整理した概念である。 見習いの弟子とは、霊的な道に入ることを目標... -
超心理学
心理学は何をしてきたのか フロイトの精神分析、ユングの元型論、そして現代の認知行動療法(CBT)など、心理学は長きにわたって心の働きを解明しようと試みてきた。心理の解明によって、心理が作り出した問題を解決しようとしたのである。 フロイトは心を「意識・前意識・無意識」に分け、特に無意識が行動や感情の根底にあるとした。ユングはさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」を区別し、集合的無意識には、すべての人類が共通して持つ心理的なパターンである「元型(Archetype)」が含まれると考えた。... -
教えからの自由
聖者の教えという檻 ラマナ・マハルシの朗読動画に、「彼の教えは金言だが、達成する者は稀だ」というコメントが寄せられていた。しかし、教えに生きる限り、自らを教えの枠に閉じ込めていることを、いずれ悟らねばならない。教えを頭で噛み砕き、心で咀嚼し、それ自体を信仰し帰依することは、最初の段階では必要だが、実践においては完全な障害となる。実践とは、「本物」からの教えそのものであり、ラマナ・マハルシはそれを「沈黙の教え」と説いた。この意味を理解できない者のために、彼は渋々ながら概念の檻...