瞑想– category –
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新時代の芸術
思考内での葛藤 瞑想にて、思考が思考をコントロールしようと思考する。これを完全に無意味とは言わないが、通常は無意味である。簡単に言えば、これは自我の動きの一部である。ヴィヴェーカーナンダの言葉を借りれば、「もしマインドを慌ただしく表現しようとする変異があり、ヨギがそれをコントロールしようとしているならば、そのコントロールそのものが変異であろう」。この想念の支配欲そのものが障害であり、低位マインドの動きと変異そのものであることを初期段階では表している。 これは、人間の低位マイ... -
難しい瞑想
瞑想を阻む要因 瞑想方法が分からないという挫かれた理想への苦渋に満ちた反応は次のことを意味している。 動機が自我の欲望であるため、波長を合わせているのは自身が描いている欲望に対してである。リアリティーと自身の欲望の区別がつかない状態。 結果として、自我が脳に対して無意味な負荷をかける。その象徴的な態度が努力や真剣さである。実際のところ、努力とはエネルギーの知的な方向づけであり、真剣さとは確信と知恵がもたらす自然の集中である。それらを表す言葉はリラックスである。 自我の瞑想は、... -
アルタ・メイジャー・センター
頭部の二つのチャクラを開く方法は何か。 その準備段階に遠いとき、人はその種の想念や欲望の犠牲になる。頭部の主要チャクラは三つであると考え始めると良いかもしれない。合一前に振動を開始する三つ目のアルタ・メイジャー・センター(alta major centre)については語られない。これは延髄にある頸動脈腺を条件づける重要なチャクラである。それより、開きたい人が去るとき開くことを知るべきである。 待ってくれ。頸動脈のチャクラなど聞いたこともない。 実際はより広範囲に感じられる生き生きとした波動を... -
真我への服従
瞑想が教える超然は、日常の中でも維持されねばならない。それは絶えざる無関係であり、絶えざる真我との同一化であり、絶えざる観照であり、絶えざる孤立した統一である。個人的な主張、不平不満、出来事に対する反応、これらからの自由である。それは真我による三界のフォースの全的な統御である。 瞑想が本当に有用なのか時々分からなくなる。疑念がわくのだ。 有用どころか信用できるのは瞑想のみである。続けるうちに至福が確信をもたらす。 なぜそう言えるのか。 自我よりも真我の感覚が強くなるから。正し... -
瞑想問答
なぜ人は瞑想するのだろうか。 何か問題があるのだろう。何かを求め、また何かを恐れているのだろう。 瞑想で、そのような個人の問題は解決するのだろうか。 解決する。ただし、個人としては解決しない。彼は、自分が個人ではない存在として解決を見る。それは、「どのような問題とも関係がない」という感覚が発達することによってである。 その感覚は誰の感覚なのか。 誰ではない。個人だった者が、個人を成立させていたものと関わらなくなることで、個人ではなくなるだけである。 その「個人を成立させていたも... -
瞑想論 -形態の破壊-
前文 真の瞑想は知的なものである。理想や観念に漠然と向かうものではなく、また理論を梯子にする固定的な方式に縛られることもない。より啓明された自我、つまり高位亜界の物質を組み込んだ人間による瞑想は、そのときに同一化し閉じ込められている形態の認識と破壊を意識的に行うものである。これは、自我意識からすれば魂と共同で行う作業であるが、実際に知的であり実際に形態を粉砕するのは魂である。自我はみずからの意識を生み出す原因である形態を知覚認識し、アジュナ・センターから魂エネルギーつまりコ...