瞑想– category –
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無題
人は風景を見て美しいと言うが、その人もまた風景の一部である。個人と風景は、ともに魂からすれば季節であり、天候であり、色彩であり、移ろいゆく変化の表現である。世界や部分はめいめいが好きなように振る舞うだろう。その意味においては自由である。しかし万物の霊長である人間だけが、自由意志のなかに不自由を見ることができる。それが自由ではないこと、自分が限定されているという苦しみを知覚することがいずれは可能になる。ならば、何が限定しているのであろうか。この問い自体がもはや瞑想である。目... -
ナルシシズム
「私にも可能だろうか」と多くの方が心配する。理由を聞くと、「ふさわしくないから」と仰る。何がふさわしく、何がふさわしくないという尺度は誰にとって存在しているのだろうか。本人が決めているのである。想像と思い込みであり、予測であり、先入観である。「であるに違いない」と言いたがる。謙遜ではなく恐れである。過去に殺人を犯しているのでと言う。奔放で迷惑な生き方をしてきたからだと言う。罪を償う準備はできているが、善や慈悲や愛は受け取れないと言う。「ふさわしい人間ではないので」が決まり... -
個人は関係ない
個人が有能だろうが無能だろうが、美しく咲き誇ろうが惨めに枯れていようが、魂からすれば何の関係もない。そもそも個人とは何なのか。ただの精神の産物であり、想像や記憶や解釈でしかない。こんな無意味で不正確な一時的なものと、なぜ関わる必要があるだろうか。情緒も想念もなくなれば、どこに個人など存在しうるだろうか。ただ、そういうものにしがみつかせる恐れや欲望が、勝手に個人を主張しているだけである。この騒音の背後に、無関係者として真我は在る。個人という万華鏡に魅せられているのは個人だけ... -
魂の波動に関する質問
世間には禅寺で1日8時間瞑想をする修行者も珍しくありませんし、ミャンマーやタイの仏教の修行場では1日12時間の瞑想を毎日繰り返しているそうです。 瞑想は修行ではなく、長時間する必要もありません。自我にはそういうスタイルは人気が出るでしょう。修行した気分にはなれますから。 彼・彼女たち全員が魂の波動を感じているかといえば、違うのではないかと思われます。 魂と接触しているならば、なぜ他人の教えや規定に従う必要があるでしょうか。何も分からないから権威のある人に依存するのです。瞑想は万人... -
意識の引き戻しに関する質問
私は瞑想を続けておりますが、記事を読み大いに助けられております。私は記事の中に出てくる失敗事例のほとんどを体現しているため、なぜ瞑想を毎日続けているのに上達しないのか、なぜ失敗ばかり繰り返すのか、朧気な理解ができるようになりました。私の理解するところによれば、私という自我は、メンタル・アストラル・肉体のエナジーの重なり合った結晶点ないし交差点のようなものであり、常に流動する性質があるため、この自我において瞑想しようとすれば、諸体のエナジーをかき回す、あるいは諸体のエナジー... -
I AM
合一の啓示 前回書いた瞑想が進展するとき、意識よりも存在、第二様相よりも第一様相、ヴェールを剥がれた魂に秘められた生命そのもの、つまり真我の兆し、存在自体に人間は感応できるようになるだろう。それは、顕現している一切のものの真我であり、根底に流れる命であり、人間が知りうるかぎり最高の純粋である。純粋とは、完全にサットヴァであるという意味である。この純粋を、魂と融合しているパーソナリティーがわが内にて知るのである。このとき、もはや崇高な意識状態よりも、その意識の背後の実体の方が...