張力の点から働くことで啓示の満潮(flood-tide)が生じる。そうすることで、そうでなければ学ぶのに数カ月もしくは数年かかるかもしれないことを一日で学ぶことが可能になる。張力(Tension)は、適切に焦点化されたとき、解放をもたらす偉大なパワーになる。非常に多くの弟子たちが張力を間違って焦点化しており、エネルギーを間違った方向に、そして間違った場所から解放している。正しい張力はまず正しい方向性によって生じる。そのためには真の価値観が必要である。また、張力ではなく拡散(extension)を引き起こす、重要ではないものへの没頭から自由になることも必要である。……あなたの「拡散」がどこにあるのかを発見し、魂のエネルギーを意識的かつ効果的に方向づけることのできる内なる張力の点へと退却するならば、そうすることが価値あることに気づくであろう。
これはまさに秘教的な実践である。弟子たちの大多数は自分の有益さを六十パーセントも発揮していない。というのも、緊張点がパーソナリティー全体にばらまかれ、個人的な張力の点が、あるべきところに集中していないからである。弟子たち各々がこの霊的な張力点を自分自身で発見しなければならない。多くの弟子たちは、意識の中心ではなく外辺で働き生活している。そのため、彼らの奉仕は部分的なものになり、彼らの献身は弱く、怠惰や他の人々に対する関心の欠如、生命の形態面に関して、夢中になっている多くの事柄に圧倒されてしまうのである。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道2」p.101
日本語訳の書籍では、Tensionは緊張と訳されているが、ここでは張力とした。張力の場合、二点(あるいは二極)間に生じるという意味を含有する。なぜこれが重要かと言うと、霊的張力は、「脳と魂」を「霊の意志様相」と同一化させることだからである。我々の場合、「パーソナリティーの意志」を「魂の意志様相」と同一化させること、この相反する方向性へと引っ張り合っているものを認識したうえで、正しい方向性へと自らを同一化させることを意味するからである。これに成功したとき、それは張力点とか緊張点と言うよりも、集中され調和された意志の融合点という感覚をもたらすことを理解するであろう。
この融合点へと「退却」する能力が我々に欠けていることが進歩の主な阻害要因である。とはいえ、なぜ「退却」なのであろうか。それは我々の意識状態から退いた、背後の、緊張ではなくリラックスした集中点だからである。私は言葉を選んで書いている。通常の人間の意識が緊張である。間違った張力の場である。二極間で引っ張り合っている状態だからである。ここに霊的苦痛の原因が存在している。唯一なるエネルギーが存在する。次に我々の諸体をエネルギーが通過するとき、例えばマインドでそれは歪められ、個人的なフォースへと堕す。我々は個人的フォースと同一化している状態にあり、本物を偽物で引っ張ろうとする錯覚に条件づけられている。この融和の点を見つけ出さねばならないのである。そのためには、二極を識別し、どちらが正しいのかという霊的価値観を養い、苦痛へ導く間違ったフォースを、常に調和や平和へ向かわせる真のエネルギーつまり意志と同一化させるという「秘教的な実践」の点を見つけ出さねばならないのである。
なぜなら、この点への集中が瞑想だからである。それは外ではなく内である。それはパーソナリティー的な外辺ではなく、意識の中心である。ここで、我々は啓示のflood-tideとも呼ぶべき溢れんばかりの知の結晶点へと導かれ、「そうでなければ学ぶのに数カ月もしくは数年かかるかもしれないことを一日で学ぶことが可能になる」のである。進歩の遅さを嘆いている初心者は、この点を瞑想でまだ見つけていないだけである。もし見つけたならば、自分の進歩とか進化段階の位置とかいったものへの興味を失うであろう。それらの概念とは無関係になるからである。なぜならそのとき、我々は分離したパーソナリティーではないからである。そのため、あらゆる不安や恐怖からもここで自由になる。それらが、「私は個人である」という錯覚ゆえに生じていた二次的錯覚であることを一瞬で学ぶだろう。と同時に、何が真の平和なのか、霊的平和なのか、神の意志なのか、唯一なる我々の最高目的なのかを理解し始めるであろう。
この考えと対になる概念として「拡散」がある。張力(tension)が「一点に保持された差異」であるのに対し、拡散(extension)は「外辺への注目の流出」を意味し、このエネルギー的に逆向きの構造を理解していないことが、現在の人類の主要な問題である。それは、「真の価値観」が養われる環境にこの惑星がなく、間違った方向性を強調するような洗脳環境に人々が置かれているからである。よって、霊的によほど敏感な者でなければ、自身が肉体や個人であるという錯覚を疑い始めるということはない。少なくとも人類の99%が疑うことなく我=肉体で生きている。これが拡散点である。外に注目することで、エネルギーが無意味に流出している状態である。
「無意味」とは、霊的とは反対方向という意味である。霊的な道を辿りたいのなら、ExtensionからTensionへと向き直らねば何も始まらない。世界や、世界に生きるパーソナリティーとしての私や、パーソナリティーの目的や、パーソナリティーの心配事といった、あらゆる拡散から自由な、外ではなく内なる融合点を瞑想で見出さねば、全くと言っていいほど進歩はないだろう。いかに自分がExtensionと関わっているかを精査したことがあるだろうか。エネルギー的な意味で言っている。瞑想には多大なエネルギーが必要とされる。穴だらけで隙だらけの意識状態で、拡散を認識していない無意識的状態で、どうして瞑想の内なる融合点が明らかになるであろうか。
例を挙げよう。日常における不平不満を感じるとき、我々はExtensionへと堕している。他の誰かや、出来事や、ニュースや、個人的な自分に批判や非難の目を向けるとき、Extensionへと逆に集中させている。これらは、自分が特定の個人であるという強い信念が基となっている。この固定してくる錯覚を打ち壊すには、瞑想で意識と注目を逆向きにさせねばならない。そうせぬかぎり、霊的なTensionの点は見つからない。真の方向性は分からない。よって、進歩できない。物質性に降ることは容易であるにしても、霊的に昇ることはできない。
この簡単な理屈を真剣に考えてもらいたい。どこで我々は拡散しているのか。漏出しているのか。目的があるのなら、目的において無意味なものは生活態度から排除するのは当たり前である。もしそれができないというのなら、それを非難してはならない。まだ条件づける力が強いのだから、その自らに強いてくるフォース(力)をよく観察することである。何ゆえの拡散・漏出なのか、個人的な楽しみがそこにあるのか、個人的に楽しいと感じるときの感覚とはどのようなものであり、その一種の興奮状態がどれだけ霊的状態を妨げるものであるのか、これらを淡々と、離れて、客観的に観察すべきである。目的は、なるだけ拡散せず、漏出せず、引き入れたエネルギーを保存して、それを善や奉仕に向けるか、瞑想のTensionに一点集中させるか、つまり霊的に有意義にエネルギーを用いることである。
進歩の遅さを気にするならば、Extension癖を一生克服できないだろう。Tensionを瞑想で達成したとき、進歩や進化という概念が指し示している境地へと意識は融合しゆくだろう。以上書いた内容は難しくないものであるが、なぜ自らの実践においては難しいのかについて考えるきっかけになってほしい。そのコツは、個人的に考えないことである。個人的に考えるなら、御しがたいアストラル性質に再び条件づけられ、自己憐憫や自己批判といった要素を招き入れ、自我の低位性質を喚起するだけになるだろう。瞑想がなぜ雑念なるExtensionを排除することであるか理解するであろうか。我々の「考える」は、無知にしか導かないからである。真の「考える」は、Tensionの領域にのみ存在する。だからこそ、「そうでなければ学ぶのに数カ月もしくは数年かかるかもしれないことを一日で学ぶことが可能になる」のである。私はTensionの領域をはっきり知った上で語っている。それは生活の中からExtensionとの関わりを放棄したからである。別言すれば、私は瞑想に集中し、個人には集中しなかった。個人を無視した。個人に嫌なことが起きようが、誰かから個人攻撃されようが、私は関わることなく、瞑想に集中した。これは、Tensionの領域に守られることを選んでいる状態である。戦争よりも平和を、対立よりも調和を選び続けたということである。これを、エネルギー的に理解して行うこと、つまり方向づけるということが、我々が少なくとも数年もしくは数カ月以内には全員学び終えなければならない霊的課題である。もしこの霊的テストに向けて勉強しようという気があるならば、Extensionへと条件づけるものは、Tensionの領域から統御されるようになるだろう。言い換えれば、急激に進歩するようになるだろう。平和と調和が達成され、分離は砕け散り、何が天の富か、何が天の至福であるかを、文字通り「味わう」であろう。
