I AM THAT

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引用

あなたはまず真我の存在を認めなければならない。「私は在る」が真我の実現である。実現が起こるまで、その手がかりをもとにたゆまず探究していくことがヴィチャーラだ。ヴィチャーラと真我の実現は同じことなのである。……瞑想には瞑想する対象が必要になる。一方、ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.95

あなたはまず真我の存在を認めなければならない。

自我は、最終的に達成されるのが真我実現だと想像する。自我は彼自身の努力で真我に到達できない。最初に真我の認識が来る。つまり魂と接触する。人間は脳意識で自身が彼とともに在り、むしろ私はそれであるという結論にただちに至る。それが「I AM THAT」である。それはたとえようもない平和であり、何ものにも乱されることのない静けさである。別のときは、内に向かって喜びであり、外へ向かって愛である。いずれも自我とは何の関係もない存在そのものの至福が根底にある。

真の自己に対する呼び名は多くあり、厳密には各々に定義があるが、我々は今、人間が最初に合一する真我について話している。「それ」が我々を真に掴んでいるときは、「それ」を認識する私、といった二元ではなく、静まり返ったマインドの彼方にて、我々はそれそのものである。人間は自我を手放し、一切の軛から自由になり、波立たない状態、三界のフォースが決して影響を及ぼすことのない自身の広がりをまさに自身のうちに見る。

手がかりをもとにたゆまず探究

手がかりとは、自身を圧する存在の感覚のことである。最初はかすかなものかもしれないが、分別ある穏やかな霊的生活と、自我を著しく喜びをもって蔑ろにする魂感覚への没頭によって、それは低位人間とマインドを清澄で純粋な霊的オーラ内に引き込み維持するようになる。このオーラに波長を合わせることが瞑想である。それは集中ではなく、ただ、それそのものの中に静かに在ることである。「それ」が在り、自我はアジュナ・チャクラを通して「それ」に波長を調整し(それは魂によって自動的なものである)、ただすべての重荷から自由な平衡と調和の美しさで在りつづけるだけである。したがって、これは探究というより彼そのものの状態である。ゆえに「ヴィチャーラと真我の実現は同じことなのである」。

瞑想には瞑想する対象が必要になる。

瞑想(ディアーナ)は本来、集中(ダラーナ)の持続を意味する用語だが、ラマナ・マハルシもこの意味において語っている。前にコメントで答えたように、私は集中を採用しなかった。何らかの種子つまり対象に固定する集中の訓練は行っていない。それは外へ向かう自我の試みである。それ自体が内に向かう魂そのものによる自然の沈黙が瞑想である。それゆえ、魂との接触がまず最初に来るべきという事実を我々は強調し、接触を可能にする知識をこのような文章を通じ共有せんと努めている。

種子のある瞑想対象への集中。合理的な弁別的マインドと、具体化能力と想念形態を形成する能力のあるメンタル体を用いる瞑想。
種子のない瞑想具体マインド(低位マインド)を理解し、正確に活用した時にだけできる瞑想。それは、マインドの変異を静め、チッタつまりマインド・スタッフを落ち着かせる能力が必要であり、その結果、それは高位の知識の色を帯び、高位のリアリティーを反映できるようになる。
アリス・ベイリー「魂の光」p.109より

見習いの道と、弟子道の初期段階を通過しているとき、魂との接触が強調される。これにより、後のイニシエーションを受けることができる前に、整列と、アンターカラナの科学的な構築という二つの活動の重要性が強調されるようになる。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道 6 」p.26

ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある

「主体だけがある」という感覚が発達するためには、人間のマインドつまり低位マインドを静める能力が必要である。低位マインドは、メンタル界の低位四亜界のことである。上から三つ目の亜界に魂が存在し(七つの界層図を参照)、低位マインドは魂を介して、霊的トリアッドの最低様相である高位マインドに(象徴的に)橋を架ける。この橋がアンターカラナである。これは瞑想を通じて、後半は意識的に建設が行われる。この橋が漸進的に構築される過程にて、人間は主体である真我を認識できるようになり、ますます低位マインドの超越領域が意識における新たな居住基盤となる。そして、宇宙が拡大しているのではなく、意識が拡大しているということを理解するようになる。このようにして自我と真我の主従の逆転が起こり、存在するのは真我のみであるという境地に真我が我々を引き戻すのである。

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