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天国意識
この世界の背後の唯一なる本物に到達したと私が包み隠さず言うとき、ほとんどの人は信じない。なぜなら、そのような者には見えないからである。妻でさえ、どこまで本当かは疑問に思っている。聖人のイメージというものが人にはあり、素行や性格といった属性がそれにそぐわない場合、偽物として、嘲笑的な態度にしばしば出会うし、頭が少しおかしい人であるという推測を受ける。したがって、ある程度の学びを終えた者にしか、助けたくても、まだ話したり教えたりすることができない。 沖縄の友達が、鬱病で入院して... -

生とその主目的
人生を生きているとは、どういう意味か。今日があり明日がある。若さがあり老いがある。最後に死ぬ。それまでは骨を折って生きねばならない。普通の人間の人生とはこのようなものである。私がここで言いたいことは、それが時間意識という錯覚によるものだということである。時間という解釈は、知覚という肉体脳を通したときに見られる映像や、感じられる感覚知覚の移り変わりを元にした解釈でしかなく、肉体を含めた三重の諸体が内在の力に包まれ安らいだとき、時間という思想は地獄であることが知られ、この現在... -

負け戦について
人々は「教えてください」と言うが、実際は「知りたくない」ことに気づいていない。知ったら困ってしまうことを本能的に知っているだけである。また人々は「助けてください」と言うが、本当は「助かりたくない」ということ、助かったら終わりだということ、ゆえにいつも助けらる側に身を置いていたいのだということ、この自我の本性に気づこうとはしない。したがって、やたらと嘘くさく、芝居じみている。真に知るような者、助かるような者とは、これらの芝居や自作自演や自己劇化への自我の欲求よりも、苦痛が上... -

無敵と難敵
瞑想中に何かを見たと言う人は多いが、それを見ている者が誰なのか、何なのか、その主体にのみ興味を持ち始めるのは、多少、瞑想の熟達が必要なのだろう。というのも、「見る者」と「見られるもの」がある場合、そこには苦痛があることに最初は気づかないからである。せいぜい、霊的な本を読んで、「私は誰か」と考える程度である。つまり、彼は「考えている」。考えることすら、考えることを可能にさせる主体なしには不可能である。すべてにおいてこれは適用できる。ラマナ・マハリシが、真我から離れて何も存在... -

善
正しく生きよとは、正しさで在れという意味である。媒体の行為は二次的なものであり、神との整列、私は神であるという境地、この一体性が臨在であり、この真我もしくは神我が正しさにして善である。だから正しく生きるとは、神で在るということであって、行為ではなく存在の状態である。このとき、すべての苦難、すべての問題、すべての謎や不可解は乗り越えられ、完全性しかありえぬこと、本物は最初から我であり、真我はそもそも正しさであり善であることが理解されるだろう。 初学者は、外的媒体における行為や... -

キリスト教徒の女
このとき、不意に一人の男が眼前に浮かび上がってきた。父親を憎んでいる恨み深い男。彼がまだ若い時分、受験のために勉強が必要だった。しかし彼の父親は勉強より宗教、合格したいなら拝めばいいの一点張りで、彼の勉強時間をそっくり日蓮か親鸞か、父親の信じている仏に向かって拝まされた。歯向かえば殴られ、前歯二本を折られている。積年の恨みは根深く、この頃のありとある話を、この男は、もはや弱りきった父親の傍らで皆に話すのが常だった。「拝めば受かる」という馬鹿げた言葉を連発し、「キチガイ」の...

