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アーティスト
今日は、連続して二つ目の記事を書こうか。どのようにしてこの男は記事を書くのかを書こうか。彼は書く前に、何を書くのかを全く知らない。何かを書こうという意図を持つことは基本的にはない。なぜなら、意見を持っていないからである。この世で何かを伝達するためには、意見的な体裁に見せる必要があるが、私じしんは、いかなる意見からも自由な状態に在る。したがって、無限に書くことが可能である。 しばらく前に、自称アーティストを名乗る肉体が、私に「ネタがない」と言った。この者は、いわゆる一発屋であ... -

山田太郎
私は、これを書いている男ではないことによって、あらゆる難を逃れている、という文章から再び始めよう。個人意識は、究極の災難である。それは本物が分からない意識であり、偽物を本物と思い、また見なしている極度の苦痛である。「私」というものは想像である。その他、目に映るあらゆる現象や形態も、根本的には想像の産物である。いわば、神のマインドの結果である。そこでは、あらゆるものが分割されており、分割されたものそれぞれに、意識が宿っている。意識は純粋だが、意識をマインドがオーバーシャドー... -

賛美歌
瞑想から出て、一時的にこの世に身を晒し、また目を曝すならば、この世はまた新たな戦争と戦火にさらされている。神は美である。我々が神を忘れ、真我から離れ、個我に屈するならば、その世界は醜悪である。しかし、魂と霊の賛美歌意識からすれば、この醜悪さもまた美と完成における不可欠な部分であり、あらゆるものがそうであるように、善きものである。躓き傷ついた者がより強靭になって立ち上がるように、外的な完成はあらゆるものの見た目上ないしは感覚知覚上の一時的な犠牲を伴う。人類は、神の意識や、神... -

真我顕現
私は、これを書いている男と無関係であることに喜んでいる。この文章は、すべての人に当てはまる。誰もが、自分を信じて生きている。それが彼だろうが彼女だろうが、本物とはいっさい無関係である。彼が悪いことをしたとしよう。普通の彼は罪悪感に悩み、悪事に対するこの世の報いに苦しむ。自分が悪事をしたと考えているのである。彼は、条件づけられた身体の行為に責任があると思っている。ところが事実は、身体やその行為は、この世に属するものであり、この世の連鎖の必然的な部分でしかない。そこに善悪はな... -

キリストの再臨
肉体と精神を分けて人は想像するが、それはあくまで想像上の解釈である。現象的に見て、肉体の病であるとか、肉体的な不調といったものに苦しんでいる人は多い。それは耐え難いものである。しかし、瞑想の真髄を理解するならば、瞑想後には、そのようなものが消えていることを発見するだろう。例えば、肉体的な苦しみで眠ることもできないとしよう。瞑想を知っている者は、その苦しみという無知に堕落していたとしても、瞑想に入りさえすれば、物質界のことは分からなくなり、つまり感じることもできなくなり、無... -

交易商
本を読み、「覚者」の言葉の意を汲み取ろうとする者は、愚かである。この愚か者は、自我である。自我は、成熟するにつれ、自我の終焉を望むようになる。それは不可能である。そのような本に書いてある状態に帰るような者とは、そこに書いてあるような話とすら交わらない者である。書いてある内容は、そのような者にとっては自明の話であるか、工夫された異なる表現でしかなく、学ぶものは何一つない。なぜなら、霊的な学びとは知的な理解ではないからである。人間は、そのような知性しか知らないため、学力のよう...



