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魂の夜明けまで
結局、みな、何かを求めている。つまり、空虚さが原因である。そして、空虚が何かを知らないことが原因である。明らかに、外の世界に求める価値のあるものはない。それはいずれも空虚さを膨張させる作用しか持たない。すると、我が内の、その空虚さが何なのか、見るよりほかになくなるだろう。 しかし、誰が見るのか。動機や下心でその自我が見るのか。これは再び何かを求めることに当たる。真我の顕現が起きるならば、そこに、する人はいなくなるため、純粋な視覚だけが残る。あるいは純粋な気づきだけが残る。し... -

喜べなかった者へ
「今喜んでいい」の命題とその転換点 前の二つの記事を読んで、あなたは喜べなかっただろうか。「今喜んでいい」という号令は、自分には適用できないものだと結論づけたであろうか。「今喜んでいい」という呼びかけは、許諾と選択の性質を持ち、完全にあなたに依存している。つまり、「今喜んでいい」という命題が、もはや素材による条件づけに依存しないということが明らかになるとき、自我――すなわちマインドは、「今喜んでいい」という事実を「知る」ことになる。この「知る」とは、ただ認知することではなく、... -

新時代の奴隷解放宣言
探求なき歓喜 「今喜んでいい」という事実は、新時代における奴隷解放宣言である。我々は現在、自身の空虚を埋めうる素材の奴隷である。喜びを感情だと思っているため、喜ぶためには、喜ばせる素材が前提であると考え、素材のために生きている。つまり、錯覚の奴隷である。 喜びは感情と無関係に、魂的にいま内在しているものである。この場合、素材なくして、現在、すでに喜びなのである。 会社員は言う。「これから仕事だというのに、なぜ喜べるのか」と。感情や気分の話を私はしていない。感覚をすべてアストラ... -

素材なき喜び
喜びを知らない大人たち 人類の大人は、生を、「喜んでいい」ということを知らない。もしくは忘れている。 われわれが子供のとき、より純粋で無邪気な喜びが在った。だが、この世の大人の顔には、もはや喜びはなく、彼らが喜ぶとき、それはただ、気分が良いことによるアストラル的な高揚にすぎない。 出来事や状況とは関係なしに「喜んでいい」という事実に対して、私はそれを、人々が「知らない」という表現を使いたい。「あなたは喜んでいい」とは言わず、「あなたは喜んでいいことを知らない」と表現する。 な... -

うわの空――聞く態度と素養
われわれの多くは、聞いていない。誰が聞き、誰が理解するのかを、自身に問うていない。 ゆえに、聞こうとしても、聞くことができない。聞くことを阻害する個人を介入させている。 聞けないことは、語られる言葉の問題ではない。心の深部に、話を遮る膜を持とうとするからだ。それは、自己防衛のための自我の膜である。 知性の声、情緒のさざめき、その両者が織りなす反応の網が、語られたものの核心に触れる前に、それを包み、歪め、吸収する。 語られた言葉を理解しようとした瞬間に、それは既知に照合され、既... -

一箇の私が見る夢
質問 古代ギリシャ哲学の小宇宙と大宇宙の関係、またはヴェーダが説くアートマン=ブラフマンの解釈は、単に人間も宇宙の一部という詩的表現ではなく、人間を通して宇宙そのものに至るための霊的マップであると捉えるべきと思いますが、いかがでしょうか。また、『リグ・ヴェーダ』第10巻90番にある「「千の頭、千の眼、千の足を持つプルシャ…この全世界は彼の身体の一部である」などの表現も、これは逆にいえば、人間の身体(小宇宙)にも宇宙の全体(大宇宙)が宿っているという理解を暗示しており、人間を通し...






