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巻き込まれるなかれ
瞑想は日常を含む。日常を含まなければ、何のための瞑想だろうか。日常を飲み込まぬ瞑想は非実践的であり、その者を決して変えてはいない。 日常では個人に帰り、アストラル的になり、都合の良いときだけ瞑想しよう、これは初心者なら許される。例えば車に乗っていて、渋滞で苛つく者がいる。他人の乱暴な運転であわや事故になりそうなとき、その相手に腹を立てる者がいる。急いでいるとき、前の車が徐行並みの速度で走行しているさまに我慢もならず、車間距離を詰めて煽り運転をしたりクラクションを鳴らしまくっ... -
分離なき意識
融合とは何なのか。何と何が合一するのか。私と魂とか、低位と高位とか、これらは錯覚である。これら自体がいずれも思考である。見る者と見られるもの、この壁を作り出しているのは想念である。高位の波動を我々は認識するかもしれないが、そこには、波動と波動を認識する者という分離が存在する。この無知が溶け去ることが融合である。無知が取り払わることで、見られていたもの、認識されていたもの、知覚されていたもの、これらの投影すべてがわたしへ帰ってくること、これが調和であり平和である。分断のない... -
霊的栄養学
人は肉体を自分と思って生きている。ゆえに、肉体の栄養を気にしている。弟子は魂が自分だと思って生きている。ゆえに魂の栄養を気にしている。 魂は、メンタル界の第三亜界に存在する。霊的な道を人が歩みはじめるとき、彼の意識は第四亜界のレベルにある。彼は第三亜界の意識に到達するための栄養を必要としている。そのため瞑想する。瞑想が終われば正しい生活を送ろうとする。こうして人間の三重の諸体に第三亜界の物質が一定割合くみこまれたとき、彼は魂を認識できるようになる。こうして弟子の次の目標は、... -
絶対に関する無題
私はすでに実体である。実体を知るためにそれを追求する者は決して見出さないだろう。なぜなら実体とは彼にとって概念だからである。あらゆる概念が無視され、関係ないと感じられ、想念を生むシステムがそれ以上の力に静かになったとき、概念ではなくそれ自体である実体が我として知られるだろう。そしてその実体はすべてに最初から遍満しているものであり、それしか存在していない。私は唯一であり、すべては唯一である。これを知ることが悟りと誤って呼ばれている事実認識であり、それは錯覚を生み出してきた概... -
意識の彼岸
変性や変容もまた外の意識に属し、それはマインドの錯覚である。瞑想で意識は変容するだろう。諸体から不純なもの、粗雑なものが取り除かれ、波動が高みに安定することで、それに応じて意識が変容したことを我々は知るが、それを知覚しているのはマインドである。感覚を知覚させる感覚体つまりアストラル体が高位に従うとき、感覚体が映し出すものは、もはや個人的な感情でも情緒でもなく、全我に由来する愛や喜びに変性される。それをマインドは知覚するが、知覚している者つまりマインドを通して外を見る魂は、... -
彼が私、力は彼
あるがままを受け入れるとは 教師は言う。「あるがままを受け入れよ。抵抗するな」と。しかし、この言葉を額面通りに受け取り、懸命に努力する者に伝えたい。受け入れようとすること、それ自体が抵抗であり、その努力は徒労に終わる。楽にはならない。 率直に言おう。低位我は抵抗そのものであり、高位我は受容そのものである。つまり、教師が言う「受け入れよ」とは、「低位我で努力せよ」ではなく、「高位我の状態にあれ」という意味なのだ。低位我に高位我の性質を強いても、それは決して叶わない。 瞑想と想念...