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舞台から降りる知恵
苦痛を見ようとしていますが、あなたが言うようなことは私には起きません。むしろ、より苦しくなると感じました。苦痛の感覚は何かの間違いだとあなたは言いますが、私にはその意味が分からず苦しいままです。 咲き誇る花を見て「美しい」と人は言う。そのとき人は、努力なしに花を見たはずである。しかし、あなたは見るために努力している。視覚は努力ではない。 苦痛を見ようとすることがすでに努力になるなら、何も私にはできないことになりませんか。 あなたが苦痛なのである。あなたと苦痛は同じであり、この... -
常識をくつがえす
道の途中まで、「常識」が逸脱を防ぐ支えになる。その後、常識を疑うことが真理の開拓者の握る斧になる。そして、最後に真理じたいが常識を消散する。常識とは、マインドの常識であり、それが超越される頃にはただの錯覚である。 病院に行くと、たいがいは症状を病名に当てはめさせられる。しかし、瞑想で眉間に行くと、症状は存在していないことが光の中で明らかになる。前者は薬を飲んだり入院したりすることで治療を目指すが、後者は真理を照らし出す目によって即時に偽りを破壊する。空が曇っていようが、眉間... -
分離に見る一体性
AとBという人間がいるとして、現象世界でこの二人は分離した肉体を持つ。つまり、分離した肉体に意識は閉じ込められており、その肉体を意識の中心として世界が眺められることになる。例えばAがBを殴るとき、痛いのはBであり、AはBの痛みを知覚しない。よって、AとBは別々の実体として意識の上で考えられ、互いを敵と見なす。 世界を構成する様々な物質や形態は分離している。それは距離や空間において分離しており、かつて死んだ者が今はいないように時間においても存在に分離がある。ここで言う存在とは、肉体や... -
蓮華の中の宝珠
客体とは、客体化の結果の仮相であり、ひとつのものを主体と客体に分割したマインドの罪であり、この罪に対する罰が分離という苦痛である。転生周期の終盤まで、人は経験を通して学ぶ必要があるため、主体と客体という分割はあえて利用される。やがて、人の魂が唯一なる魂に気づくようになり、自我(非自己)はおのれが魂(自己)において客体でしかないことを知ると同時に、すべての自我たち、すべての"客体たち"の中にも魂(自己)を見出し、外周から中心に至り、形態の背後に魂を見て、その魂の背後に生命を見... -
その方については何も語ることのできないお方
結局のところ、魂が啓示するものは霊つまり生命である。我々が存在していると見なす全てのものに内在し、その存在を(一つの側面ないしは観点から)可能ならしめているものは、唯一にして普遍的な生命である。我々は高次の意識に興味を抱いているかもしれないが、どのような意識であれ、その背後にあるのは生命である。意識は第二様相であり、それは形態つまり第三様相との相互作用に基づくものであり、したがって原初ではない。意識は原因ではなく結果であり、つまり第一様相と第三様相の結果であり、しかし全て... -
瞑想における主体と客体
私は現在瞑想をしていて、何か怒りや悲しみ、その他微妙な情緒的反応がある場合、それらを知覚・認識し、それぞれ「怒り」「悲しみ」「自己憐憫」「欲求」「妄想」など心の中でラベル付けし、これらをアストラル・フォースであると認識したうえでに巻き込まれない(同一化しない)ようにしております。アストラル・フォースの識別とは、私がやっている、情緒的な反応が生じた場合、それに気づき、その内容を分析しこれをアストラル・フォースであると認識する(同一化しないため)という手法でいいのでしょうか? ...