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聖者との交わり
退屈で面白身のない毎日。朝起きると苦痛。起き抜けの不快を忘れてもっと寝ていたい。しかし、楽しみがある日は、喜んで起きるのである。明らかに、自身の感覚の原因は自身である。マインドの態度、姿勢、解釈に由来している。ここに何かヒントはないものだろうか。というのも、つねに幸せでいてもらいたいからである。 不快は喜びに変わる 起きて不快感を覚えた場合。平時から静かな精神であれば、その不快感からけっして目をそらさず、不快感をただ見るだけで、喜びに変わることを知る。もともと在った魂の喜び... -
アストラル瞑想からの自由
実践的瞑想法では、アストラル体の統御が課題である段階については書かなかった。この記事では、その段階の瞑想で何をなしうるか、どうあるべきか、考えてみたいと思う。まずは、アストラル性質の代表的なものからいくつか見てみよう。 動機が欲望 そもそも、アストラル体に偏極している状態とはなにか。アストラル体は欲求体である。例えば霊的な野心が動機で瞑想する段階もある。悟りたい。解脱したい。自我を超越したい。クンダリーニの火を覚醒めさせたい。ワンネスやサマーディーを体験したい。進化段階を高... -
無題
人は風景を見て美しいと言うが、その人もまた風景の一部である。個人と風景は、ともに魂からすれば季節であり、天候であり、色彩であり、移ろいゆく変化の表現である。世界や部分はめいめいが好きなように振る舞うだろう。その意味においては自由である。しかし万物の霊長である人間だけが、自由意志のなかに不自由を見ることができる。それが自由ではないこと、自分が限定されているという苦しみを知覚することがいずれは可能になる。ならば、何が限定しているのであろうか。この問い自体がもはや瞑想である。目... -
ナルシシズム
「私にも可能だろうか」と多くの方が心配する。理由を聞くと、「ふさわしくないから」と仰る。何がふさわしく、何がふさわしくないという尺度は誰にとって存在しているのだろうか。本人が決めているのである。想像と思い込みであり、予測であり、先入観である。「であるに違いない」と言いたがる。謙遜ではなく恐れである。過去に殺人を犯しているのでと言う。奔放で迷惑な生き方をしてきたからだと言う。罪を償う準備はできているが、善や慈悲や愛は受け取れないと言う。「ふさわしい人間ではないので」が決まり... -
個人は関係ない
個人が有能だろうが無能だろうが、美しく咲き誇ろうが惨めに枯れていようが、魂からすれば何の関係もない。そもそも個人とは何なのか。ただの精神の産物であり、想像や記憶や解釈でしかない。こんな無意味で不正確な一時的なものと、なぜ関わる必要があるだろうか。情緒も想念もなくなれば、どこに個人など存在しうるだろうか。ただ、そういうものにしがみつかせる恐れや欲望が、勝手に個人を主張しているだけである。この騒音の背後に、無関係者として真我は在る。個人という万華鏡に魅せられているのは個人だけ... -
魂の波動に関する質問
世間には禅寺で1日8時間瞑想をする修行者も珍しくありませんし、ミャンマーやタイの仏教の修行場では1日12時間の瞑想を毎日繰り返しているそうです。 瞑想は修行ではなく、長時間する必要もありません。自我にはそういうスタイルは人気が出るでしょう。修行した気分にはなれますから。 彼・彼女たち全員が魂の波動を感じているかといえば、違うのではないかと思われます。 魂と接触しているならば、なぜ他人の教えや規定に従う必要があるでしょうか。何も分からないから権威のある人に依存するのです。瞑想は万人...