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エレメンタルの統御
誰も「それそのもの」には関心がない。パソコンを付けても、モニターが映し出すものを求め見るのであって、モニターそのものはではない。なぜなら、モニターそのものは欲望を満たさないからである。世界もまた様々なものを映し見せるが、世界の原因そのものは人間の欲望を満たさない。映像や体験は、人間のマインド、情緒や欲求、そして肉体を刺激し捉える。つまり人間は、自分自身(三つの低位顕現体)の形成者の意向通りに騒音をかき鳴らすフォース、すなわち諸体のエレメンタルの養分を供給することには熱心で... -
明け渡し
自我を放棄する覚悟が必要だ、と彼は表現した。ラマナ・マハルシの「本」を彼は学んでおり、いわゆる「明け渡し」を実践しようと試みている。そのような覚悟がなければ真の明け渡しではなく、真我実現は不可能だと言うのである。本が与える知識を所有するときに起こりやすい錯覚である。 明け渡しは方法ではなく状態ではなかろうか。つまり、彼の言う「真我」が、彼の想像する「自我」に現れて、彼が所有していた想像の産物といずれも関わりをもたせなくなった状態である。状態を実践できるだろうか。落ち込んでい... -
私は誰か
なぜなら、自己意識は徐々に移行してゆき、ついには小さな自我を超えた彼方にある「それ」に中心が定まるからである。……あなたは自分自身に「私は誰か」と尋ねなければならない。この探究が、最終的にはあなたの心の背後にあるそれの発見に導くだろう。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.107 真我と接触し共存している意識が「私は誰か」とは問わない。真我であることが分かりきった意識は真我に没頭しており、生命力を持つ残りの障害(ヴァーサナー)を調整するその自動作用にただ安らいでいる。この段階で瞑想... -
努力なき瞑想へ
想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは想像している。それは本当ではない。終わりは来る。もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力をつづければ、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っていくのがわかるだろう。この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.103 この引用には注意が必要である。そのまま受け取り、自我で強引に努力し続けるならば、脳に危険なダメージを与える可能性がある。「終わりは来る」。そ... -
I AM THAT
引用 あなたはまず真我の存在を認めなければならない。「私は在る」が真我の実現である。実現が起こるまで、その手がかりをもとにたゆまず探究していくことがヴィチャーラだ。ヴィチャーラと真我の実現は同じことなのである。……瞑想には瞑想する対象が必要になる。一方、ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.95 あなたはまず真我の存在を認めなければならない。 自我は、最終的に達成されるのが真我実現だと想像する。自我は彼自身の努力で真我に到達できない... -
制圧のプロセス
アートマンは死んだ心、つまり想念のない、内側に向かった心によって実現される。そのとき、心はそれ自身の源を見て真我となるのである。それは主体が客体を知覚するような状態ではない。 ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.92 実際起こることは、アートマンつまり魂の感覚が徐々に自我意識を上回り、最後に破壊を引き起こすだけである。「内側に向かった心」は、自我の瞑想における努力ではなく、魂のエネルギーの引力が諸体のフォースの引力を制圧した結果、強力な内的集中が起きただけである。そのとき、自我...