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光の道
肉体が「私」ではないことを理解しているかという問題。頭で理解しているだけならば、自身を肉体と思いながら依然として行動し生き続けるだろう。真理は、自身を肉体と思いながら理解できない。このことを強調すべきである。なぜなら、我々は肉体である私として学んでいるからである。そういう時期はあり、また経る必要があるだろうが、乗り越える必要もある。私が肉体ではないのなら、他人も肉体ではないのである。真の私はどの肉体でもなく、すべての顕現の原因である生命にほかならない。生命だけが在る。生命... -
物質のグナの話
遅刻する人がいる。寝坊する人がいる。どうしても起きれなくてと言う。あるいは、すべきことをギリギリまでやらないで、時間ギリギリでないと始められない人がいる。そして結局は時間に追われてミスをしたり遅れたりする。このような人はどういう状態に置かれており、なにゆえにいつもそうなのであろうか。 それが低位であれ高位であれ、すべての界層の物質には三つの様相ないしは特質がある。それをヒンズー哲学などではサットヴァ(リズムと調和)・ラジャス(活動性)・タマス(惰性)の概念で説明している。「... -
中古と新品
人間は常に何らかの問題を抱えている。言い換えると、人間魂は統御できないフォースに囲まれている。彼らは、物事を活動しているフォースとして捉えることがまだできず、どのような問題も何らかのフォースでしかないことが分からないでいる。翻って言うならば、これらのフォースを魂が統御できれば三界で問題はなくなっていく。個別化していた人間魂、人間の意識は、唯一なる魂にして唯一なる意識に返還される。 神秘家は、形態と形態を超えたものを漠然と想念で扱い、例えば悟った者とか聖者や覚者といった概念に... -
観照だけが自由
瞑想する者が関与することになる高位の波動について解説する。 まず、低位我が瞑想を開始し、その瞑想が長年にわたり適切に行われたとき、低位我を構成する物質の中に、一定割合、最初に認識することになる高位亜界である第三亜界の物質が組み込まれるようになる。このとき、低位我は魂と呼ばれてきた高位我を認識するようになる。これはヒンズー哲学ではアートマン、キリスト教哲学ではキリストの概念に相当するものである。 低位我は、四六時中、高位我である魂の波動にさらされるようになる。多くの熱心な弟子... -
巻き込まれるなかれ
瞑想は日常を含む。日常を含まなければ、何のための瞑想だろうか。日常を飲み込まぬ瞑想は非実践的であり、その者を決して変えてはいない。 日常では個人に帰り、アストラル的になり、都合の良いときだけ瞑想しよう、これは初心者なら許される。例えば車に乗っていて、渋滞で苛つく者がいる。他人の乱暴な運転であわや事故になりそうなとき、その相手に腹を立てる者がいる。急いでいるとき、前の車が徐行並みの速度で走行しているさまに我慢もならず、車間距離を詰めて煽り運転をしたりクラクションを鳴らしまくっ... -
分離なき意識
融合とは何なのか。何と何が合一するのか。私と魂とか、低位と高位とか、これらは錯覚である。これら自体がいずれも思考である。見る者と見られるもの、この壁を作り出しているのは想念である。高位の波動を我々は認識するかもしれないが、そこには、波動と波動を認識する者という分離が存在する。この無知が溶け去ることが融合である。無知が取り払わることで、見られていたもの、認識されていたもの、知覚されていたもの、これらの投影すべてがわたしへ帰ってくること、これが調和であり平和である。分断のない...