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あらゆる霊的な失敗
教師から非分離の精神を教わり、われわれは感銘を受けるかもしれない。新たな理想と目標に熱誠をいだき、愛あふれる自分でいられるよう、日常生活で苦闘しはじめるかもしれない。これはやがて無意味と知られるだろう。自分として努力している。よって分離した自分を強めるだけである。自分が静まったときにだけ愛は妨げられず開示される。愛と自我は両立しない。活発なマインドが分離の発端であり、愛の殺戮者である。想念なき状態だけが愛に統合し、非分離の平安をもたらす。マインドは絶えず変異し、次々に思考... -

童心
寝る前、童心に帰る人は多い。気持ちよくなり、幸福感が包み込み、一時的に世界を遮断する睡魔の力に受容的になる。心配事や考え事にひどく縛られている場合、肉体は疲れていても、世の中への執着が勝り、幸福ではなく苦痛、弛緩ではなく緊張が持続し、不眠症に悩まされることになる。それは世界に悩まされているのである。硬直や緊張を和らげる物質を摂取しないかぎり、活発なマインドを抑え、睡眠へと導入することはできなくなる。 精神科、あるいは心療内科で薬をもらうことはできるだろう。しかし、処方する医... -

苦痛の克服
苦痛の知見 むかし、苦痛を一秒で治せることを発見した。本当の話ならノーベル賞か何かもらえるのだろうか。瞑想するなら、このような技術は初歩的なものである。誰でも習得できる。なぜなら、瞑想は初期段階において自分を知ることだからである。 精神的な苦痛があるとしよう。しかし肉体の苦痛も含め、三界の苦痛はすべて精神的つまりマインドが原因である。マインドが未熟なとき、苦痛という早まった解釈があるにすぎない。この記事では、もっと簡単な、普通の情緒的な心理的苦痛について考えてみたい。苦痛が... -

愛に生きる
人が分離した自分を理解のなかに抱擁し、溶かし、自然へと還すとき、理解され圧倒されるのは愛ではなかろうか。自我を霊的な世界に惹きつけるためには、至福や喜びや解放が、個人と関連づけて強調されるかもしれない。しかし、瞑想は自我に愛の美しさを教える。世界は混沌としているように見える。これを癒やすのは愛しかないことをわれわれ人類は学んでいる。世界がその異常さに苦しんでいるのは、われわれが分離という錯覚に苦しんでいるからである。人は愛されたいという。人が真に自分のことを気にかけなくな... -

問題の解決
何を言われようが、何を質問されようが、興味があるとするなら一つだけである。なにが問題なのか。 欠落しているものが補われれば事足りるのだろうか。貧乏人が富み、病人が症状から解放され、絶望が希望に変わるとき、われわれは問題がなくなったと言う。それは両極端を往復する繰り返しである。われわれの生は、快楽と苦痛、幸福と不幸、欲望と恐怖を行ったり来たりするが、その終わりはない。むしろ交互の来訪が約束なのだが、好ましい一方だけを求める戦いが繰り広げられている。稀に、この幼稚な精神に弄ばれ... -

人知を超えた平和
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配...






