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惑星意識としての奉仕の科学
私は個人と関わりを絶っている。個人という感覚に気づいてさえいない。この新しい意識領域においては、個人や個人にまつわるどのような話も埒外である。ゆえに、常に喜びに満ちており、それが兄弟姉妹に向けられるときは愛となり、内に深く向けられるときには至福となる。人間の経験の世界においては、恐怖と苦悩と悲哀が渦巻いており、あまりに危険に満ちているように思われるが、私はそのような領域と一切関わりがない。私は人間とではなく、その背後の真の自己であるものと完全に融合している。したがって、い... -
自分を特定の個人だと思っているということは、自分が個人を動かしている主であり、個人に関する決定や実行といったコントロール権、あるいは自身が下したとみなしているそのような自由意志に責任がある主であるという感覚を持っており、このような無知の態度が、地上に地獄を作り出している原因であることに我々は気づく必要がある。簡単に言うと、誰が行為者なのかという点に大きな錯覚がある。 肉体を動かしているのは、肉体以外の体を通ったエネルギーである。人間の場合、アストラル体とメンタル体を通ったエ... -

肉体の病気より神の奉仕
しばしば肉体的苦痛を観照することが私に起こる。なぜなら、快楽と苦痛を登録する肉体と意識という道具がまだそこにあるからだ。私の健康状態ゆえに苦痛の登録は増える。少し前、私はその苦痛を観照していたが、あなた方がここに来たらなくなってしまった。人は意識の中に安定すると、ただ喜びだけでいっぱいになる。私はその意識に安定して喜びでいっぱいだったのだが、突然病気が現れたために苦痛がやってきたのだ。あなたが意識の中に安定して、どんな肉体的不調もないかぎり、どんな苦痛も経験しないことだろ... -

災いの原因は常に同一
病気がどういうものなのか、その苦しみを分からずに語っているのではないかという問いかけを受けたとき、次のような疑問が浮かんだ。私が病気になりえないと言うのは、真我という永遠なる無病と一体であり、その本物のみが我であることを知るからだが、果たして、肉体をあえて病気にしてその苦しみを味わうことが私に可能であろうかと。病気の原理が分かるということは、あえて病気を受け入れる方法も理解していることを意味する。私はある人を治療しながら、その病いつまりカルマを可能であれば引き受けたいと思... -

病気とカルマ
また身近な者が風邪をひいて苦しいと言っている。治せる力が内在することをまだ知らないし、治し方もまだ分からなくて苦しんでいるのである。私は、簡単に風邪などが治ってほしくはない。つまり、なぜ風邪という現象が生じたのか、何が原因であり何ゆえの風邪であるのかを突き止め、原因と結果を結びつける能力を発達させ、自らの非霊的な弱点や態度が何であるのかを学んでほしいのである。でなければ、繰り返すだけである。 その方を私が見る(診る)ならば、ここしばらく、ずっとネガティブな思考に生きており、... -

魂とマインドの瞑想について
個我を超越した証しである喜びや至福を知る手段として日々の瞑想がある。ゆえに再び、瞑想そのものについて語りたいと思う。一般的な瞑想の定義は、何らかの種子に対してマインドを固定させ続けるといった集中に関するものである。私はそのようなことは一切しなかった。言い換えると、それは真我への直接的瞑想ではなく、自我とマインドが行うことである。次の引用を再確認してもらいたい。 瞑想するのは魂である。瞑想は積極的な活動であり、消極的な状態ではない。瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で...

