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見習いの弟子と浄化のプロセス
秘教的な道において、「見習いの弟子」と呼ばれる期間がある。それは魂を見出す前の期間と、自らの波動を魂の波動と一致させ、接触の障害にならないよう低位三諸体を精製する期間に分けることができる。この期間を象徴する言葉は「浄化」であり、それは霊的成長を志す者にとって極めて重要な局面である。 この時期、従来の自己認識や価値観が根底から揺さぶられ、次々と試練が個人へもたらされる。多くの人々はこれを「悲惨なまでの苦痛」として体験するが、それは一時的なものであり、やがて魂との融合が確立され... -
寂光霊智
瞑想は、具体の思考を離れ、抽象の思索へ移りゆく魂の道理なり。その極みに到らんと欲せば、思考の沈静を要す。これを知るとき、自然に心の燈は静まり、知るべき境へと至るものなり。その境こそ、ブッディと称さるる霊智の領域にして、眉間の上部へ意を集め、またはその眼をもって眺むるにより、真の知見へ導かるるものなり。斯くして直観の門、必然の理により開かる。 凡そ、初学の者は瞑想を拒み、書を読みて理を求めんとす。これは、形而上的遊戯に等しきものなり。されど、斯くの段を過ぐる頃には、静寂を好... -
進化におけるエーテル体と病の試練
私が魂を感知できない理由は、エーテル体の浄化が完全ではないから、という可能性がありますか。 エーテル体は、魂のエネルギーが物質界へ流れ込む経路であり、肉体と高次のエネルギーを結びつける橋渡しをする。具体的には、メンタル体→アストラル体→エーテル体→肉体という順序で伝達される。ゆえに、エーテル体の純化は魂の知覚における一要素ではあるが、単独要素ではない。アストラル体とメンタル体の純化が同時に必要であり、現代の人間においてはアストラル体で主に魂のエネルギーが歪曲表現されているため... -
意識の進化とパーソナリティー表現の遅れ
高度な意識を持つと推察される聖者や、あるいはイニシエートとみなされる者が、時に激しい感情をあらわにし、さらには怒気をも含むような下劣な態度を示すことがあるのはなぜでしょうか。彼らが意識の高みに達しているのであれば、常に穏やかで慈愛に満ちた高潔な表現をするはずです。 意識の段階とその外的な表現は必ずしも一致しないが、最終的には一致すべきものである。なぜ一致しない場合があるのか。それは意識に相応しい表現が形成されるまでに、パーソナリティーが浄化の時間を要するからである。 たとえ... -
アリス・ベイリーとラマナ・マハルシの統合的考察
霊的進化の道筋を理解するために、アリス・ベイリーが提示したイニシエーションの体系と、ラマナ・マハルシのサマーディー分類の対応関係を明らかにし、さらにそれを観察、観照、存在の世界という意識の階層的プロセスに結び付けて解説する。以下にこれらを総合的に分析し、それぞれの段階がどのように調和し、進化の道を明示するのかを考察する。 ベイリーのイニシエーション体系 アリス・ベイリーによれば、人間の霊的進化は一連のイニシエーションによって段階的に進む。これらの段階は、人間の意識が低位マイ... -
ヴィパッサナー瞑想者との対話
ヴィパッサナーは『雑念を止める』でも『雑念に流される』でもなく、第三の道として『ただ観察する』ことを提案します。このアプローチに対し、あなたの『高位の力』という概念は、それを補完するものでしょうか? それとも、それに代わる新たな枠組みを提供するものですか? 観察しているのは誰だろうか。観察者が誰であるかを問うことで、観察そのものの性質に対する洞察が得られる。この問いが重要なのは、観察者の意識段階が観察の効果を決定的に左右するからだ。たとえば、まだ高位のエネルギーと接触してい...