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瞑想の落とし穴
瞑想するためには、瞑想が何かを知らねばならない。また、何が瞑想ではないかを知らねばならない。書くからには専門用語を使う。まずメンタル体と言うからには、それは体つまり"質料たち"であるに違いない。言い換えれば、それは質料経由のフォース、質料に条件づけられたフォースの集合体であり、よってマインドはその性質として、思考という形態を作り出し、思考というフォース活動を媒介する役割を担っている。したがって、思考とはただのメンタル・フォースであり、ならば思考を静かにさせるのは、低位メンタ... -
魂の光を待つとき
以下の文章を理解するためには、エネルギーとフォースという概念の予備知識が必要であるため、必要であれば「エネルギーとフォースの違い」を参考にしていただきたい。 人の心は、荒れ狂う嵐の海にも似て、波立つ感情、渦巻く欲望、手の届かぬ空を映す水面のきらめき、その虚無と混沌が交錯し、調和を忘却させる不可思議な性質を帯びている。それはわれわれが人間であるかぎり避けられない性質であるが、大海の深奥には、いまだ生み出されえぬ至高の力が秘められている。多くの者はその力、その静寂にたどり着く前... -
新たなる瞑想の指針
もし私が、ある程度の達成に至ったと認められる瞑想者を導くとするならば、まず多くの習慣を断固として禁じるだろう。書物を読むことは一切禁止とする。己で考える力つまり直観を放棄し、他者の言説や権威が築き上げた虚構の世界に縛られる者には、真実への道は閉ざされている。この観点から言えば、信仰、崇拝、敬仰、憧憬、尊敬、などといった行為や感覚そのものが、真我からの明白な逃避の表れである。 さらに、あらゆるものを概念化し、命名しようとする行為もまた厳禁とする。ただし、三界の中で他者とコミュ... -
アンターカラナの暗夜
瞑想とは何かそれは何かを得るための手段だろうか。もし個人の視座に立つならば、瞑想は魂と個人とを結びつけ、普遍的な生命という大海に意識を溶け込ませる神聖なる航路であり、また道でもあるだろう。しかしながら、その舟が目指す港が幻影にすぎぬならば、それはただ波間を揺蕩う漂流に終わる。 瞑想を始める者が、魂との一体化を希求する際、その魂という抽象観念は多くの場合、他者の語りや文献的権威に依存する断片的理解の集合体に過ぎない。これらはまるで朝霧に包まれた遠景のように、その輪郭はぼんやり... -
悪を越えた人類の可能性
瞑想は、人間が内なる善のエネルギーに回帰せんとする本能的な道標である。しかし、物質世界のフォースは強風のように魂の飛翔を阻む。その力は往々にして我々を悪しき方向へと誘い込み、道義の座標軸を歪めるのだ。 現代社会において、社会的価値は経済的価値へと転化し、資本の論理が津波のように人々の生活を侵食している。その波は教育、医療、住居といった人間の基盤を容赦なく飲み込み、社会的価値を瓦礫へと変えつつある。この過剰な合理性は、人類の集合意識を資本の飽くなき追求へと駆り立て、金銭の多寡... -
在るの影はする2
「在る」ではなく、「する」へと駆り立てる人間の力とは何か。この人間の衝動を、「在る」という存在の深淵で制し、鎮めようとする魂の奉仕、個我がこの不眠不休の奉仕に頭を垂れ、一致しようとし始める回帰運動、これが瞑想である。この神聖な営みは、あらゆる「する」への執着を超克し、ただ「在る」という境地へ誘う。「在る」そのものの状態において、我々は地上の分離した個人意識を離れ、言葉ではあらわしえぬ根源へと回帰する。それは、単なる快楽や一過性の幸福感などという卑俗な気分や感覚をはるかに凌...