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アンターカラナの暗夜
瞑想とは何かそれは何かを得るための手段だろうか。もし個人の視座に立つならば、瞑想は魂と個人とを結びつけ、普遍的な生命という大海に意識を溶け込ませる神聖なる航路であり、また道でもあるだろう。しかしながら、その舟が目指す港が幻影にすぎぬならば、それはただ波間を揺蕩う漂流に終わる。 瞑想を始める者が、魂との一体化を希求する際、その魂という抽象観念は多くの場合、他者の語りや文献的権威に依存する断片的理解の集合体に過ぎない。これらはまるで朝霧に包まれた遠景のように、その輪郭はぼんやり... -
悪を越えた人類の可能性
瞑想は、人間が内なる善のエネルギーに回帰せんとする本能的な道標である。しかし、物質世界のフォースは強風のように魂の飛翔を阻む。その力は往々にして我々を悪しき方向へと誘い込み、道義の座標軸を歪めるのだ。 現代社会において、社会的価値は経済的価値へと転化し、資本の論理が津波のように人々の生活を侵食している。その波は教育、医療、住居といった人間の基盤を容赦なく飲み込み、社会的価値を瓦礫へと変えつつある。この過剰な合理性は、人類の集合意識を資本の飽くなき追求へと駆り立て、金銭の多寡... -
在るの影はする2
「在る」ではなく、「する」へと駆り立てる人間の力とは何か。この人間の衝動を、「在る」という存在の深淵で制し、鎮めようとする魂の奉仕、個我がこの不眠不休の奉仕に頭を垂れ、一致しようとし始める回帰運動、これが瞑想である。この神聖な営みは、あらゆる「する」への執着を超克し、ただ「在る」という境地へ誘う。「在る」そのものの状態において、我々は地上の分離した個人意識を離れ、言葉ではあらわしえぬ根源へと回帰する。それは、単なる快楽や一過性の幸福感などという卑俗な気分や感覚をはるかに凌... -
在るの影はする1
瞑想における真剣さとは何なのか。日常の一瞬一瞬に浸透する、瞑想的な生き方における真剣さとはどのようなものなのか。それは決して「頑張る」ことではない。努力や精神力と呼ばれる硬直した力みでもない。それらは、個我という小舟が掻き立てる波風に過ぎない。それは行為であり、行為とはすなわち、動機や目的に縛られたあてもない旅路だ。今ここに在る地点を否定し、遠い遠い岸へと無理やり渡ろうとするあがきであり、それは「存在そのもの」に対する抗いの影を孕んでいる。 瞑想がもたらす最も深遠な啓示、そ... -
恵まれている自覚
どれほど厳しい人生に見えるとしても、正しい瞑想に導かれた生涯は、極めて稀で幸運なカルマがもたらしたものであるに違いない。しかし、「霊的に目から鱗が落ちる」瞬間まで、未来はあえて隠されるべきものであり、この見方に同意するのは難しいかもしれない。同様に、隠された過去が明らかにされるとき、なぜ自分がこのような人生を歩むことになったのかを我々は深く理解するだろう。そして瞑想できる環境や、霊的なアイディアに反応できる諸体を纏って生まれてきたことに感謝するだろう。 現在、世界中で尋常な... -
切迫感というグラマー
「マインドを超えてゆくこと」や「マインドの彼方」、これらを聖者方は強調して伝えますが、私には瞑想でどうすればよいのか、どう在ればよいのか、これについて何年も分からないままでいます。 それは分からなくてよい話である。多くの人が逆に考えている。事実は、超えた後、超えたことが理解されるのである。超える前、それについては何も分からないし、分からなくていい。超越を期待してはならない。 私は切実に真我を求めています。残りの人生は短く、切迫感をもって瞑想しています。「求めよ、さらば与えら...