-

「I AM THAT」p.266
あなたは世界のなかに平和と調和を求めながら、あなた自身のなかにそれをもつことは拒んでいるのだ。 ニサルガダッタ・マハラジ これは最初に平和を知らないからである。平和を知ったあと、個人は副次的に平和になっていく。個人が道徳的・倫理的によくなることが生の目的ではない。それは真の目的に付随するものでしかない。とはいえ、この文章は世界の混乱の原因をそのまま解き明かすものである。たとえば、「抑止力」という詭弁が詭弁であることを通常の人間は理解できない。軍事費の増額、武器の購入、果ては... -

生の目的と霊的
何に苦しんでいたのかと言われた。何で生きなければならないのか分からないことに苦しんでいたのである。生まれてしばらくすると、誰もが死という概念に出会う。恐ろしい概念である。父親に、死ねばどうなるかと聞くと、無になると答えられた。ならば、無になるのに生きて何の意味があるのか。無に帰するものに生きて何の意味があるのか。到底納得できない答えであるが、誰に聞いても、適当な答えしか返ってこない。驚くべきは、みな分からないのに、悩まされておらず、平然と生きていることであった。考えたって... -

断食と真の味覚
断食が瞑想に効果的かという質問について。率直に答えれば効果的である。しかし、瞑想の効果を高めるために断食するという動機は、何やら元気である。瞑想の効果を高めたい人は誰なのか。その人が元気なときの発想に違いない。つまりきな臭い。肉体エレメンタルに支配されていない場合、肉体をサットヴァに保つことは自然なことであり、心地よいことである。逆に、暴飲暴食もしくは過食や豊食に生きながら、サットヴァ意識を保つことは無理だろう。人類は、ほとんど食べる必要がないことをまだ知らない。食が生の... -

アートマ・ヴィチャーラ
「私は誰か」という問いが出るのはなぜか。真我を発見するため、という個人的な動機で問われるものではない。最終的な超越を妨げているのは「私」である。肉体がどの場所に行こうとも「私」は在る。この「私」から逃げられた者はおらず、夢のない睡眠中や失神中、昏睡状態といった無意識と呼ばれる状態のときだけ逃れられており、また自由である。我々の場合は、目覚めた意識でありながら、つまり「私」としての意識がありながら、その「私」から自由である意識や状態を達成しようとしている。通常の動機は、「私... -

ガラス玉演戯
魂は人間生活の三界に三重の表現を創造する。外的な形態、つまり二重の肉体(濃密な肉体と活力体つまりエーテル体)は、魂が――良きにつけ悪しきにつけ――同一化の反応を巧みに処理したレベルから発せられるあるエネルギーとフォースによって生み出され、創造され、動機づけられ、活性化され、条件づけられるのである。この文章に注目しなさい、我が兄弟よ。これらが人をその人であるところのものにしているのである。これらは彼に物質界における彼の体質、職業適性、特質を与え、衝撃を与える様々なタイプのエネル... -

真我探求の誤解について
ラマナ・マハルシであれニサルガダッタ・マハラジであれ、その本の中身は対話の書き写しである。それを「編者」が、様々な項目別に分けて、整理したものである。また、数多の対話の中から抜き取られた箇所は、編者の興味や関心、そして納得と理解の限界に依存している。「編者」が介在するとき、その本は「編者」流になる。偏るし、しばしば誤る。例えば、対話の前に説明文を自身の言葉で差し挟むとき、間違って解釈しているものが掲載され、初心者はそれを見て間違って覚えてしまう。誰も、自身がまだ知らないも...

