RPG

「今日は瞑想ができない。瞑想できない自分が嫌になる。気分が悪い。考えれば、何年続けてもこれといった成果はない。自分には向いてないに違いない。さりとて世の中も自分には向いていない。希望が持てず、もはや何もかもに嫌気がさす。おそらく、自分は駄目な人間なのだ」

ナルシシズム的な、自己憐憫型の条件づけと同一化するとき、我々はしばしば、「駄目な自分」という演出を好む。「可哀想な私」という演技に没入し、自身で自身を苦しめる。言っておくが、無視するか我慢するかして瞑想を続けるならば、この種のフォースに屈することはなくなる。意識のチャンネルを切り替えられるようになり、パーソナリティーから意識をずらし、すぐにその背後の沈黙の観照者に意識を引き戻すことが可能になる。その領域だけが守られた領域であり、この世つまり三界のいかなるフォースも、悪も、錯覚も、立ち入ることができない無限の至福の領域である。

「希望がない」と個人は言う。彼は個人に希望がないことを知らなかったのだろうか。あるいは、知らないゆえに、個人の希望を追求していたのであろうか。重要なのは、このような自身における事実を見てこなかったことである。自分がどういう仕組で動かされ、精神がどのような条件づけに屈しやすい性質であり、どのタイプのネガティブな傾向を欲しているのか、そしてそれが何ゆえなのか、といったことを観察してこなかったことが致命的なのである。

自分を他人と思った方がいい。客観的に観察すべきだからである。もし主観的に観察するならば、純粋な観察はできず、そこに批判や非難や結果としての苦痛や自己憐憫などの情緒的な錯覚に惑わされる。あまり関わりのない嫌な他人がいるとき、あるいは人伝に嫌な人の話を聞かされるとき、その者の性質を客観的に観察し、なぜ彼が嘘つきなのか、なぜ彼女が自慢ばかりするのか、なぜ怒りっぽく、思いやりに欠け、のべつ自己中心的であるのかを、ただ事実観察できるはずである。これを自身に対して適用するためには、自分と思っているものが本当の自分ではないことを知り、他人とでも思い、その性質を客観的に見なければ始まらない。すると、何に踊らされているのか、何を恐れているのか、何が自身の最大の空虚なのかを理解するだろう。弱点の源、いわば私というRPGのボスを見つけ出すだろう。

昨日だったか、親戚の子供に、お年玉をやる代わりにパソコンのゲームをPayPayで買ってやった。そして思い出した。小学時代、お年玉でドラクエを買った記憶がある。なぜ皆するのかを知らねば気が済まなかったのだが、面白さを理解するには至らず、親にクリアしてもらった。経験値を積み、強くしたらボスに挑むということの、おそらくは繰り返しである。私の場合、最初からレベル100にするにはどうすればいいかを考えるタイプだった。あるいは、最初から99999ゴールド所持するMODを作れないか模索するタイプだった。その方が早いからである。ストーリーには興味がないのだから、この強いられたクリアを、いかに効率的に達成するかが主眼になるのである。これは我々の人生とか、瞑想にそのまま当てはめられるから言っている話である。

友達は、ゲームのストーリーに感動したと言っていた。入り込むタイプである。映画を見ていても、私は監督か脚本家か演技力の優劣の目線で見るためストーリーが入ってこないが、この世も同じで、我々は各々が「自分」というロールにのめり込みすぎている。それは、しばらくすれば死ぬものである。もしそのロールが自分ならば、死というものがあることを知っていながら、怖くないのだろうか。いくらレベル100にしても、この世で歴史に残る者になっても、その者はすぐ死ぬことが決定済みである。死んだあと、生きていたときの領域とは無関係になり、生前99999ゴールド所持していても、1ゴールドも死んだら所持できないし使えもしない。生前に執着していたものを得られないため、この世をまだうろついている亡霊たちの、なんと多いことか。これほど無価値な自分、死すべき自分が、本当に自分なのだろうか。あるいは、経験値を積んで、苦行の末にやっとレベル100に到達するものなのだろうか。私が行ったのは、ゲームのストーリーの無視、はやくクリアするために最初からレベル100、所持金99999ゴールド、といった条件でやることである。これを人生に当てはめてみよう。最初から真我を知ろうとしさえすれば、即座にレベル無限、天の富無限、あらゆる敵には愛、あらゆる艱難辛苦には至福、いかなる経験も不要、いかなるストーリーにも完全無関心が達成されるだろう。最初から勝ち戦である。

要点は、物語や経験を自分として求めないということである。強調している先が違いすぎる。パーソナリティーのいかなる意見、思想、感情、欲求、恐怖とも無縁な意識、レベル無限の意識を最初に得て、その後にこの世の人生RPGを分離なき視点で開始すべきである。いわば、「強くてニューゲーム」である。そして重要なのは、ドラクエのボスならどこか外にいるだろうが、我々のラスボスは、内側にいるということである。私がラスボスである。ストーリーに没入しているような青い精神ならば、ストーリーの中に毎回ボスを見つけ、レベルを上げ、倒し、達成し、この世で何らかの「成功」を都度達成すべく努力するだろうが、これらの者は死を忘れており、全部無常、全部無くなることを忘れており、何が本物で、何が目的であるかを思い起こすという、真のロールを忘れている。

この世の自分ストーリーに没入するのは、真のロールを思い出すべく経験を積むためである。十分に経験したならば、もう同じことの繰り返しはいいではないか。最初から最強なら敵もなく、最初から無敵ならば物語を盛り上げる要素も盛り下げる要素もなく、早急にストーリーとは無縁になるだろう。関心がなく、よって無関係になるだろう。事実、真我は我々や我々の世界に対して完全に無関心である。だから、偽の己に没入している者には、「まだそのロールでゲームをプレイングしているのか」と言いたい。まだその役割が楽しいのか、まだその役割で倒すべきボスがいるのか、まだ勇者を目指しているのかと、ほとんど笑いながら問いかけたいくらいである。

瞑想できない駄目な自分というロールが与えられているなら、簡単な話で、そのロールを捨てればいい。自己放棄である。諦める。その者でのゲームのクリアを不可能とみなすべきである。これも事実を言っている。自我ではクリアできない。よって自我は無視されるべきである。それが真にできるようになるには、自分という錯覚がなくなり、魂と融合していなければならないゆえ、それまでが難しく感じられるし、実際に辛く苦しいものである。しかし、そのロール意識では気づけないが、そのロールという解釈、「私は肉体であり名前や国籍はこうだ」などといった偽の灰汁さえ瞑想で削ぎ落とされるならば、この世のボスつまり悪は、戦わずして溶かしてしまうだろう。いま、灰汁意識の背後に、純粋意識が在る。このように書くと、何かを想像してしまうかもしれないが、想像するようなものではない。ただ、現行の自分が希薄になりさえすれば、理解され、感じられ始めるものである。背後の実在を覆い隠している己がラスボスである。私が冒険者にして、道を歩む者にして、道に集う仲間たちにして、経験値を積む者にして、最終的に挑むべきラスボスであるという、一人芝居である。よって、全部自作自演であると私は言い続けてきた。これに気づくとき、滑稽さの衝撃に、驚愕するか、笑ってしまうだろう。

瞑想ができないときは誰でもあるため、あまりロールにのめり込むことなく、そのような時期は定期的に訪れるものだと理解して、起きる出来事で感情的にならないよう注意しつつ、ラスボスが我であることを忘れないようにしつつ、己という道を探求し、弱き冒険者である自我ではなく、強き勇者である真我のみが我というラスボスを光の下に照らし出し、火で焼き尽くすものだと知り、真我探求者を語る偽の我にしてラスボスである自我の誘惑に注意して、無視、忍耐、諦念という、最高の必殺技を習得し、道そのものになってもらいたい。

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