-

質問と所感2
瞑想が自我瞑想になっているかどうかは自分でわかるのでしょうか 自分が自我である。したがって、融合あるいは整列するまでは、誰もが大なり小なり自我瞑想の要素を持つ。自我が魂と接触していない場合、完全に自我瞑想であるため、危険なことや無益なことをやりやすい。まだ、瞑想するのが自分(自我)であると思っているのである。ここで、この段階における悪い瞑想の判断の基準を述べる。最も重要なのは、苦痛を伴う瞑想は危険に直結しようとしているとみなすべきである。ただし、そもそも乱れた気を放置した結... -

質問と所感
「この人は本物ですか」といった類いの質問について 本物とは唯一なる生命のことである。生命つまり霊が人間においてその表現をする場合、言い換えるとエネルギーが人間において表現される場合、諸体の光線や物質の質料、あるいは外部からのフォースなど、あらゆるものに制約を受け、条件づけられることになる。人間の場合、主役は純粋なエネルギーではなく、フォースに影響を受けたエネルギーである。その表現から、どのような進化段階にあるのかを推測することは容易であるが、進化段階の高低は、本物の表現にお... -

一人相撲
多くの秘教徒は、道を辿るということは、低位性質を克服し、正しい生活と思考、愛と知的な理解という観点から生命を表現しようと意識的に努力することと考えているようである。それはそうであるが、それ以上のものである。善良な性格と善良な霊的熱誠は基本的な不可欠要素である。しかし……それらの基礎と、それらを認識して発達させることは見習いの道での目標である。 アリス・ベイリー「光線とイニシエーション下」p.63 不親切に接した者は、自分こそは親切でありたいと願うものである。善良さを売りにしている... -

それはこの世の話だろう
知覚者の意識の中にすでに存在するか、部分的であれ存在するものにしか接触することはできない。したがって、知覚者が敵意と憎悪を感じたとすれば、それは彼の中にも敵意と憎悪の種子が存在するからである。それがなければ、和合と調和しか存在しない。これは普遍的な愛の最初の段階であり、すべての存在と一つになろうとする熱誠家の実際の努力である。まずは自分自身に着手し、自身の性質の中にある有害さの種子を一掃するように努める。そのため、自分や他の人々への敵意を生む原因に対処するのである。その自... -

薪をくべる
いっそのこと世を捨ててしまおうか。これまでのしがらみを全て断ち切って、ひとり山にでも逃れてしまおうか。社会に頼らず、社会に属さず、誰と関わることもなく、自給自足を営み、瞑想修行にひたすら明け暮れようか。――こういう人を何人か見てきた。愛の外道という記事で次のように書いたことで、何人かの怒りを買い、また何人かを困惑させてしまったようである。「個人の責任を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか」。冒頭で話した世俗からの逃避、社会における個人的責任の放棄もまた、私... -

誕生日プレゼント
友人が、誕生日に人間関係で理不尽な目に遭った。人間関係は、己を肉体として生きている者にはやっかいなものである。田舎にありがちなことかもしれないが、小さなコミュニティから、いわゆる村八分のような宣告を受けたのである。なぜかというと、彼は勇敢だから、誰もが怖くて言えないことを堂々と強者の面前で言い放ったからである。たったこれだけで、そのあたりには住めなくしてやろうという報復が行われた。何が起きたか真相を私は知っている。その者が今は悪者にされているが、悪くない。人間にはしばしば...

