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キリストの再臨
肉体と精神を分けて人は想像するが、それはあくまで想像上の解釈である。現象的に見て、肉体の病であるとか、肉体的な不調といったものに苦しんでいる人は多い。それは耐え難いものである。しかし、瞑想の真髄を理解するならば、瞑想後には、そのようなものが消えていることを発見するだろう。例えば、肉体的な苦しみで眠ることもできないとしよう。瞑想を知っている者は、その苦しみという無知に堕落していたとしても、瞑想に入りさえすれば、物質界のことは分からなくなり、つまり感じることもできなくなり、無... -
交易商
本を読み、「覚者」の言葉の意を汲み取ろうとする者は、愚かである。この愚か者は、自我である。自我は、成熟するにつれ、自我の終焉を望むようになる。それは不可能である。そのような本に書いてある状態に帰るような者とは、そこに書いてあるような話とすら交わらない者である。書いてある内容は、そのような者にとっては自明の話であるか、工夫された異なる表現でしかなく、学ぶものは何一つない。なぜなら、霊的な学びとは知的な理解ではないからである。人間は、そのような知性しか知らないため、学力のよう... -
魂の夜明けまで
結局、みな、何かを求めている。つまり、空虚さが原因である。そして、空虚が何かを知らないことが原因である。明らかに、外の世界に求める価値のあるものはない。それはいずれも空虚さを膨張させる作用しか持たない。すると、我が内の、その空虚さが何なのか、見るよりほかになくなるだろう。 しかし、誰が見るのか。動機や下心でその自我が見るのか。これは再び何かを求めることに当たる。真我の顕現が起きるならば、そこに、する人はいなくなるため、純粋な視覚だけが残る。あるいは純粋な気づきだけが残る。し... -
喜べなかった者へ
「今喜んでいい」の命題とその転換点 前の二つの記事を読んで、あなたは喜べなかっただろうか。「今喜んでいい」という号令は、自分には適用できないものだと結論づけたであろうか。「今喜んでいい」という呼びかけは、許諾と選択の性質を持ち、完全にあなたに依存している。つまり、「今喜んでいい」という命題が、もはや素材による条件づけに依存しないということが明らかになるとき、自我――すなわちマインドは、「今喜んでいい」という事実を「知る」ことになる。この「知る」とは、ただ認知することではなく、... -
新時代の奴隷解放宣言
探求なき歓喜 「今喜んでいい」という事実は、新時代における奴隷解放宣言である。我々は現在、自身の空虚を埋めうる素材の奴隷である。喜びを感情だと思っているため、喜ぶためには、喜ばせる素材が前提であると考え、素材のために生きている。つまり、錯覚の奴隷である。 喜びは感情と無関係に、魂的にいま内在しているものである。この場合、素材なくして、現在、すでに喜びなのである。 会社員は言う。「これから仕事だというのに、なぜ喜べるのか」と。感情や気分の話を私はしていない。感覚をすべてアストラ... -
素材なき喜び
喜びを知らない大人たち 人類の大人は、生を、「喜んでいい」ということを知らない。もしくは忘れている。 われわれが子供のとき、より純粋で無邪気な喜びが在った。だが、この世の大人の顔には、もはや喜びはなく、彼らが喜ぶとき、それはただ、気分が良いことによるアストラル的な高揚にすぎない。 出来事や状況とは関係なしに「喜んでいい」という事実に対して、私はそれを、人々が「知らない」という表現を使いたい。「あなたは喜んでいい」とは言わず、「あなたは喜んでいいことを知らない」と表現する。 な...