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善
正しく生きよとは、正しさで在れという意味である。媒体の行為は二次的なものであり、神との整列、私は神であるという境地、この一体性が臨在であり、この真我もしくは神我が正しさにして善である。だから正しく生きるとは、神で在るということであって、行為ではなく存在の状態である。このとき、すべての苦難、すべての問題、すべての謎や不可解は乗り越えられ、完全性しかありえぬこと、本物は最初から我であり、真我はそもそも正しさであり善であることが理解されるだろう。 初学者は、外的媒体における行為や... -
キリスト教徒の女
このとき、不意に一人の男が眼前に浮かび上がってきた。父親を憎んでいる恨み深い男。彼がまだ若い時分、受験のために勉強が必要だった。しかし彼の父親は勉強より宗教、合格したいなら拝めばいいの一点張りで、彼の勉強時間をそっくり日蓮か親鸞か、父親の信じている仏に向かって拝まされた。歯向かえば殴られ、前歯二本を折られている。積年の恨みは根深く、この頃のありとある話を、この男は、もはや弱りきった父親の傍らで皆に話すのが常だった。「拝めば受かる」という馬鹿げた言葉を連発し、「キチガイ」の... -
アーティスト
今日は、連続して二つ目の記事を書こうか。どのようにしてこの男は記事を書くのかを書こうか。彼は書く前に、何を書くのかを全く知らない。何かを書こうという意図を持つことは基本的にはない。なぜなら、意見を持っていないからである。この世で何かを伝達するためには、意見的な体裁に見せる必要があるが、私じしんは、いかなる意見からも自由な状態に在る。したがって、無限に書くことが可能である。 しばらく前に、自称アーティストを名乗る肉体が、私に「ネタがない」と言った。この者は、いわゆる一発屋であ... -
山田太郎
私は、これを書いている男ではないことによって、あらゆる難を逃れている、という文章から再び始めよう。個人意識は、究極の災難である。それは本物が分からない意識であり、偽物を本物と思い、また見なしている極度の苦痛である。「私」というものは想像である。その他、目に映るあらゆる現象や形態も、根本的には想像の産物である。いわば、神のマインドの結果である。そこでは、あらゆるものが分割されており、分割されたものそれぞれに、意識が宿っている。意識は純粋だが、意識をマインドがオーバーシャドー... -
賛美歌
瞑想から出て、一時的にこの世に身を晒し、また目を曝すならば、この世はまた新たな戦争と戦火にさらされている。神は美である。我々が神を忘れ、真我から離れ、個我に屈するならば、その世界は醜悪である。しかし、魂と霊の賛美歌意識からすれば、この醜悪さもまた美と完成における不可欠な部分であり、あらゆるものがそうであるように、善きものである。躓き傷ついた者がより強靭になって立ち上がるように、外的な完成はあらゆるものの見た目上ないしは感覚知覚上の一時的な犠牲を伴う。人類は、神の意識や、神... -
真我顕現
私は、これを書いている男と無関係であることに喜んでいる。この文章は、すべての人に当てはまる。誰もが、自分を信じて生きている。それが彼だろうが彼女だろうが、本物とはいっさい無関係である。彼が悪いことをしたとしよう。普通の彼は罪悪感に悩み、悪事に対するこの世の報いに苦しむ。自分が悪事をしたと考えているのである。彼は、条件づけられた身体の行為に責任があると思っている。ところが事実は、身体やその行為は、この世に属するものであり、この世の連鎖の必然的な部分でしかない。そこに善悪はな...