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唯一のルール
今も昔と同様に、弟子を拘束する絶対に曲げられないルールがただ一つだけある。つまり、低級性質を完全に高級性質に従わせなければならないというルールである。 H・P・ブラヴァツキー「実践的オカルティズム 」p.64 オカルティズムやエソテリックな文献を読み漁るとき、敷居が高く感じられる。とても自分には無理だと感じさせられる。相当難しい道であるように思え、絶望的な気分にさえなる。しかし私が発見してきたことは、実際はそうではないということである。この道は難しくない。むしろ最も自然な道であり、... -

どのような奉仕をすべきか分からない
現在の世界の困窮に対して行うべき努力のために、あなたは実際的な性質のことで何をしていますか。あなたの創造的な事業は生活の贅沢品を扱っているため、あなたは、同じように強力に同胞へのあなたの奉仕を――この場合もやはり物質界において――表現することで、それを相殺することが必要である。 アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」p.154 平和ボケとは、争いのない平和な環境が当たり前だと思い込むことによる危機感や当事者意識の欠如であると一般的には考えられているが、霊的な学習者は、物質界における日常... -

神通力
全ての弟子たちは、生来備わっている所有権により自分のものであるフォースとエネルギーを活用することを学ばなければならない。これらエネルギーとフォースを、平均的な人々が理解した上で活用することは稀でしかない。彼らは通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない。 アリス・ベイリー「新時代の弟子道3」p.61 人工知能は何にでも答えてくれると思っている人は多い。私が見た感じ... -

「私が行為者であるという感覚」つまり地獄
我々つまり自我は、「私」という感覚を持つ。しかしながら、我々が発見すべき新しい意識領域には、「私」という感覚が存在しない。マインドが魂に統御されているため、「私」という想念が存在できない。これが純粋意識つまり魂意識である。 しかし、我々は「私」という想念や感覚を前提とした意識領域に存在している(と思い込んでいる)。結局のところ、マインドが魂を介して降下するエネルギーに身を委ね従っていないため、メンタル活動が四六時中続いており、そのマインドが生み出す想念という錯覚の中に意識は... -

質問と所感2
瞑想が自我瞑想になっているかどうかは自分でわかるのでしょうか 自分が自我である。したがって、融合あるいは整列するまでは、誰もが大なり小なり自我瞑想の要素を持つ。自我が魂と接触していない場合、完全に自我瞑想であるため、危険なことや無益なことをやりやすい。まだ、瞑想するのが自分(自我)であると思っているのである。ここで、この段階における悪い瞑想の判断の基準を述べる。最も重要なのは、苦痛を伴う瞑想は危険に直結しようとしているとみなすべきである。ただし、そもそも乱れた気を放置した結... -

質問と所感
「この人は本物ですか」といった類いの質問について 本物とは唯一なる生命のことである。生命つまり霊が人間においてその表現をする場合、言い換えるとエネルギーが人間において表現される場合、諸体の光線や物質の質料、あるいは外部からのフォースなど、あらゆるものに制約を受け、条件づけられることになる。人間の場合、主役は純粋なエネルギーではなく、フォースに影響を受けたエネルギーである。その表現から、どのような進化段階にあるのかを推測することは容易であるが、進化段階の高低は、本物の表現にお...

