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小学生の読者へ
家に誰かが来た。彼は、その家は私のものだと主張した。こうして、家をめぐる私と彼との争いが始まる。そのうち、私は彼がひどく神聖で、著しく礼儀正しく、自分のような粗野な者からすれば平伏すべき存在であり、格が違うことを理解しだす。と同時に、彼の主張は理にかなっており、家が彼のものであることを全面的に理解し、賛成すらするようになる。昼は私が家にいて、夜は彼が家にいるような生活から、共同でいつも暮らすようになり、ついには、彼が自分であるという驚くべき事実を理解するまでに至る。かつて... -

不可思議の中の不可思議
元気だった者がいきなり体調不良に陥った。医者は適当に原因を推測して薬を出し様子を見ましょうと言うか、自身の知識では測れない場合は原因不明で片付ける。私なら一発で解決する方法を教えるだろう。もし真剣に聞こうという者がいるならば。たとえば私に、つまり肉体意識の私に体調不良が確認されたとする。キツいとか、だるいとか、苦しいとか。私はそれらが偽物であるという真相を知っている。したがって、完全に無関心である。肉体が病気だろうが元気だろうが私には関係がない。重要なテクニックを述べる。... -

二の一
「神は愛である」から「神は意志と力である」という最後の教えへの変遷について。これがなぜ重要であるかというと、我々の内部でもこれは起こるからである。フォース(force)は文字通り力だ。対してエネルギー(energy)と言うとき、実際に我々が指しているのはフォースであり、純粋なエネルギーではない。たとえば、魂のエネルギーと言うが、それは実際は魂のフォースである。 エネルギーとフォースは神とその創造物のようなものである。被造物は神によって成り立ち、すべての被造物のあらゆる局面に神は浸透し... -

失われた我を求めて
瞑想の一般的な構図は、想念と、それを抑えようとする瞑想者である。一刀両断するならば、彼自身がすでに想念なのである。言い換えると、「考えられるもの」と「考える者」は、ともに想念である。その背後に純粋な意識が在る。これを魂と言うならば、魂は無関心に観照しているが、想念は、肉体人間を自分と考え、また瞑想者だと考え、瞑想する自分がすべきことは想念を抑制し内側に集中することだ、と考えるのだが、この一連の流れはすべて想念ではなかろうか。 然り、私とは想念である。これをどうにかしようとし... -

「あるがまま」からの逃避
あなたは、あるがままと直接に関係しない。あなたは、孤独の扱い方をご存知だとおっしゃる。指摘させていただくなら、この、孤独への働きかけそれ自体が、あなたなりのその避け方なのである。あなたは、散歩に出かけたり、あるいは孤独が去るまでそれとともに座っておられる。あなたは、常に孤独に働きかけていて、孤独にその物語を話させない。あなたは孤独を支配し、孤独に打ち勝ち、孤独から逃げ去ることを欲する。それゆえ、あなたと孤独との関係は、恐怖の関係なのである。 クリシュナムルティ「生と覚醒のコ... -

仏陀的
もし内的に落ち着きがなく、瞑想することもままならないと瞑想中に感じたならば、普通は諦めて止めるか、かつて達成されたレベルにまで入れるよう何とか努力しようとするだろう。このような判断に関わっているのは個人であり、個人の動きは常に逃避的である。私ならば、「今日は諦めよう」とか、「より深い意識に入るまで頑張ろう」などといった想念とそもそも関わらないため、何もしない。何もさせない力が勝っている。瞑想させないように内部で暴れ回っているものをただ見る眼が在るだけである。それは決して、...

