アストラル体の統御と魂のエネルギー

アストラル体を統御するために魂のエネルギーが必要であるとの記述と、魂のエネルギーを呼び起こすためにアストラル体の統御が必要であるという記述において、いささか自家撞着に陥ってはいないかという質問について。つまり、アストラル体の統御と魂のエネルギーとの接触の、どっちが先かという問いについて、まずは以下の表を用いて考えていきたい。

意識レベル扱う対象
1平均的な人間三界における現象世界のフォース。
見習いの弟子つまり浄化の道にある熱誠家
2弟子魂のエネルギー。これがやがてフォースを支配するようになる。
3イニシエート(第三段階以上)唯一なる生命エネルギー。したがって、生命エネルギーと魂のエネルギーと現象世界のフォースを支配するようになる。

1の時期

平均的な人間であった我々が、霊的な話に興味を持ち、自身に合った教師の教えを真剣に学ぶようになり、霊的な道に向かって努力を開始する。熱誠家(aspirant)である。最初は、自身を霊的な理想に適合させるため、正しい人格であるよう見直すことになる。自己省察と性格構築の時期であり、どうあるべきかという理想に対して、霊的な教師から得た知識が支えになる。必然的に、してはならないことを止めようという努力がなされ、悪徳を美徳に変えることが目標になる。これは、物質界の人間(いわゆる自分)を扱うものであり、まだ知覚できない三界のフォースを概念や観念として理解し、努力でそれらを補おう、扱おうという試みがなされる。この時期において、自身が単にフォースに動かされているだけであるという理解はなく、自我意識という分離の錯覚が人間の魂を専有し、自由意志の感覚を用いて、フォースに対するフォースの適用という誤った努力が大きな苦悩と失敗を生み出す。彼は瞑想するが、うまく瞑想できない自分に悩み苦しむ。彼は正しく生きようとするが、日常生活で依然として人間的であり、感情的であり、霊的に無能であることに悩み苦しむ。こうあるべき自分という理想に程遠い現実に打ちのめされる。戦場はアストラル界であり、これは浄化の道である。関係するイニシエーションは第一イニシエーションであり、この時期の多くの見習いの弟子たちが第二イニシエーションを目指し始める。

2の時期

持続的な瞑想生活を通し、浄化の道をくぐり抜ける。エネルギーとフォースを識別するようになり、三界のフォースは魂のエネルギーによって変性されうることを目の当たりにする。彼の瞑想は諸体を安定させ、「浄化」により、専門的に第三亜界の物質が諸体に一定割合組み込まれるようになり、これにより、魂のレベル(最初はメンタル界の第三亜界)から魂のエネルギーがマインドを介して弟子の脳へと流れ下り、彼の頭部はこのような抽象レベル(三つの高位亜界)の波動で満たされるようになる。これは、頭頂部のヘッド・センターから流入し、眉間のアジュナ・センターを介して、目覚めた意識状態で弟子に操作されるようになる。つまり、三界のフォースに対する魂のエネルギーの賦課ないしは適用である。これを理解したとき、弟子は結果の世界における努力がなぜ無意味であるかを知り、自身が肉体を含めた諸体ではなく、魂であることを理解し、自身を動かす三重の自我のフォースではなく、魂のエネルギーに波長を合わせ生きるようになる。数々の記事でこれらの内容は扱ってきた。この内的に科学的かつ意識的な生活が送られ波動が高位レベルに安定したとき、アストラル界は征服され、愛という言葉が表現しようとしてきたものが何であるかを弟子に体験させるとともに、彼をより直観的にし、次の戦場がメンタル界であることを理解させる。つまり、アンターカラナの前半の構築(魂とパーソナリティーとの連結)は終わり、後半すなわち魂を介した低位マインドと高位マインドの連結が瞑想の目標であることを理解する。したがって戦場はメンタル界であり、戦場に立つのは基本的には第二段階のイニシエートであり、彼の目標は第三イニシエーションである。

返答

ここで冒頭の質問に戻ることができる。順序立てて書いてきたが、必ずしも順番通りに起こらない。様々な相互作用を通して意識は拡大する。ある人はアストラル体の浄化において進展が遅れ理解に乏しいかもしれないが、第一光線に条件づけられており、そのためより進歩した人よりエネルギーやフォースに敏感かつ扱いが容易であるという場合など様々であり、諸体を条件付ける光線と偏極が関係し、さらにはカルマが考慮されねばならないが、これらの話のどこにも我々が落胆する要素はない。

アストラル体つまり様々なアストラル・フォースを統御するのは魂のエネルギーである。したがって、瞑想で諸体を安定させ、正しい瞑想生活を送る努力をし、高位亜界の物質を(最初は無意識ながらも)組み込むことに成功したとき、魂のエネルギーに対する感受性が開花することは確かだろう。つまり妨げる要素がないのである。それは最初、額に感じられるだろう。瞑想をしたことがなく、霊的な道を全く歩んでいないように見える人でも、このエネルギーに敏感な場合もあり、一概にこの種のエネルギーの受け皿になっていることがその者の意識の段階を直接的に示すわけでもなく、このようなエネルギーに敏感であれ鈍感であれ、どのような優越感や劣等感も抱く必要がないことは自明である。我々のような初心者は、平均的な人々が接触できず、扱うこともできないエネルギーを操作できるようになるとき、自身が進歩しているという錯覚や分離の過ちを犯しがちだが、これらの情緒的な感覚つまりアストラル界のフォースに支配されているかぎり、瞑想の界層つまり純粋にメンタル界に移行することは難しく、瞑想が観照になることはほとんど不可能だろう。

まとめると、アストラル体の統御は、魂のエネルギーを弟子が扱うことで進展するが、統御の前半には個人的な理想への努力であったり、瞑想であったり、低位の波動を高位に安定させる効果のあるものが作用することで統御過程が進展するため、最初から魂のエネルギーは必要にならないだろう。様々な人間がおり、様々な努力や過程があり、結果としてアストラル体が安定しゆくことで、魂のエネルギーの伝導体になる。そして、これ自体は、特別な進化段階を全く示さない。この記事では扱わなかった3の段階、つまり関係するイニシエーションで言えば第三イニシエーションが人類の目標である。ここを通過しなければどうにもならない。第二イニシエーションでも、おそらくかなりの意識の変化を経験するだろうが、この段階では依然として自我意識を超越できない。一時的に超越を知っても、また融合の度合いに応じた自我意識に戻ることになり、完全であるとは言えない。完全であるためには、我々つまりパーソナリティーは、完全に魂に統御されている必要がある。つまり、アストラル体の統御に続き、低位マインドを我々は統御することになる。一般的に、この低位マインドの統御が瞑想であり、マインドの統御は意識が低位マインドを超えて高位マインドへと移行し、瞑想が観照になるとき、可能になるだろう。

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