道の苦しみ

霊的な熱意や大望を抱き、錯覚から抜け出さんと歩みを進める人間は、相当な苦しみを体験する宿命にあるだろう。なぜなのか。ここを自ら解き明かさぬ限り、霊的な道であれ人間的な生き方であれ、永遠に苦痛から免れることはない。そして、人は苦痛を厭い、苦痛のない状態を目指そうとすることで失敗する。自我で生きることで傷つき疲れ果て、自我ならぬ意識、真我や悟りや進化を求めることで失敗する。このようなものを求めるとき、そうでない自分として苦しむのである。到達できない自分や、世の中の出来事に苦しむことになる。大怪我や大病による肉体の苦しみは無理にしても、このような精神の苦悩は、比較的簡単に終わらせることができる。苦痛のあまり霊的な道を諦める人は多いが、それは一時的な誤解である。この道は完全に美しい。全く苦痛を味わう必要がない。苦行はいらない。苦しい修行は一つもする必要がない。なぜなら、苦しいとき、それは間違った修行であることを単に意味しているからである。ここに気づくなら、苦痛は驚くべき教師であり、間違いのない案内人であり、知恵への扉である。

我々が何かを求めるなら、それが手に入らぬ限り、苦痛である。求めるから苦痛であることは明らかである。ならば、求めることが間違っていることは簡単に理解できると思うのである。

求めるという、この欲求は、単なるアストラル・フォースである。それは純粋に個人的な欲求であり、それを所有することで、霊的に高位のものと全く波長が合わないため何も知覚できなくなるのである。

欲求が低俗であれ高尚であれ、世俗的であれ霊的であれ、それを所有するならば、所有したものしか見えなくなるだろう。真我を実現するために、一日に何時間も瞑想を続け、必死に求めるという意味を間違って解釈し、精神を病んだり、脳細胞を損傷させたり、後遺症に苦しむといったことがないよう、苦痛が感じられるときは、即座になんであれ中止し、何かを間違えているがそれに気づいかないことの慈悲の教えであることを思い出す習慣が必要である。

求めるものは与えられると言いつつ、求めるものは決して得られないだろうと言う。霊的な世界がこの種のパラドックスだらけなのは、ただ、自我で解釈しているからである。想念や解釈もまた、基本的にはアストラル・メンタル的なフォースでしかなく、どのような想念や解釈も所有するに値しないのである。それを所有するなら、所有したものしか見えなくなるのである。

どうやったら所有しないでいられるのか。このような疑問がわき起こったとして、通常の人間は、すぐにその疑問を所有する。つまり同一化する。現実感に負けてしまうのである。そのような想念もまた、単に想念であることに気づくなら、関わらないことである。何ら気にする必要がない。どのような想念であれ所有するならその波動へ我々は引きずり降ろされ縛りつけられることになる。すでに実現されている真我が見えなくなる。

つまり、何もする必要がないということを知るためだけに、我々は何かするのである。ここに本当に気づくなら、何もしなくなる。例えば、仕事をしなくなるとか、料理も洗濯も家事もしなくなるとか、そういう意味ではない。行為は、ただ気づきの対象でしかなくなる。それを自分がしているという想念や感覚はなくなる。行為しているのは我々ではないのである。我々は動いているというより動かされている。生きているというより生かされている。意識がどんどん瞑想で純化されていくならば、想念は起こらなくなり、気づきによって統御されるようになり、生命そのもの、完全なる愛と美が降臨する。

霊的な道の苦しみには立ち向かわなければならないと、勇気や忍耐や強い意志力を教える教師もいるだろう。私は、もう十分苦しんだ人向けに書いている。つまり、諦めかけている人や、力が残っていないような人向けに書いている。もし自我として元気ならば、これからも努力や苦闘は続けられるだろうし、様々な手法や取り組みに精を出し、修行している自分に満足するだろう。そういう試みは十分にやったが、無理だった人向けに書いている。なぜなら、はやく苦痛から解放されてほしいからである。しかも、それは難しいものではないため、可能な限りあらゆる方向から書き、どれか一つでも錯覚を打ち破るヒントになりたくて書いている。そして、苦痛などなかったと、何人か見つけると思うのである。すると、想念に情緒がいわば付着しないため、純粋に想念の統御の段階に入ることができるし、非常に美しく喜ばしい意識に簡単に入れるようになると思うのである。こうして自分というものは克服され、他人もなくなり、いわば全部自分となると思うのである。これにより、個人の霊的な成長というありきたりな錯覚ではなく、想像を絶するより良い目的に仕えることが可能になると思うのである。

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