クリシュナムルティの解読

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経験する人と経験されるものの一体性

以下の動画で、クリシュナムルティは、他者に対して憎悪を持つ苦痛を抱える質問者に対し、「憎悪」と命名することが問題であり、「憎悪自体」を見るとき、「憎悪している人」と「憎悪という感覚」が一体であることに気づき、「この統合が必要であり、この問題に正面から取り組まねばならない」と締めくくっている。

普通の人にはこれはできない

クリシュナムルティの問題は、様々な霊的メカニズムが発達した後にできるようになることを、その説明なしに、自身の高みから説いていることである。その結果、クリシュナムルティが何を言おうとしたのかを人々は頭で考え、それをどうやればいいのかを頭で研究するようになる。実際は、この過程には頭が関与してはならないのである。

他者への憎悪が苦しいと質問者は言う

クリシュナムルティのように、「憎悪自体」を見ることで、「私」と「憎悪」という頭の上での分離を解消し、一体である状態に導き、いわば憎悪という門から直接、霊的な解放に導くというアプローチもあるが、これは後に、低い段階での方法であることが知られる。

最も本質的な「対処法」は、関わらないことである。このとき、「憎悪」があっても、それと私は何の関係もないという「本物感覚」を重視することになり、憎悪に力を与えずに済む。またこのとき、憎悪というものが悪いものであるという先入観も存在しない。クリシュナムルティも言っているが、要は、他者を憎むことで自分が苦しいから問題なのだろうということである。しかし「苦しみの感覚」と、「私」とわれわれが思っているものは、同じものなのである。この統合はどのようにして起き、この統合とは何のことなのか。

分離を生み出すマインドの不在が統合である

分離――私と憎悪などのあらゆる分離は、ただ頭の中の話である。これと関係せずに、つまりはマインドよりも魂に焦点化せよ、ということが話の肝なのである。段階を追って、分離したものを見て、その見るという魂の目の作用によってグラマーとイリュージョンを解消し統合を引き起こすか、あるいは、分離して感じられるものを無視して、魂だけに焦点を当てるのか、アプローチに多少の違いはあっても、結局は、「ただ魂で在れ」と言っているのである。ならば、魂の発見が先ではないだろうか。

この「存在自体」を知ること、真我を知ることだけに焦点を当てた方がより直接的であるが、見習いの段階では、知的な理解が必要であり、知識が知恵へと変容することで、それが存在を啓示するという意識における成長の過程があるため、「見ること」の習得は必要ではあるが、それにしても、その目は魂の目であって、マインドの目(頭での理解)とは全く異なるものなのである。「魂の目」は、第二イニシエーション前に開いていなくてはならず、魂として見ることで憎悪などのアストラル界の問題にその目はイルミネーションをもたらす。これにより、情緒的な問題は存在しなくなるのである。たったこれだけの話である。

存在自体

一般の人々は意味の世界で生き、そこに存在している。イニシエートと大師は存在の世界に焦点を置いている。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.139

イニシエーションの過程の初期段階において、彼は意味の世界で働く。第三イニシエーション以降は原因の世界で働くようになり、やがて存在の世界で働くことができるほど進歩する。熱誠家は、意味の世界の目的を把握して、獲得した知識を日常生活に理解をもって応用しようと努めている。弟子は、原因の世界の意義を理解して、実際的な方法で原因と結果を関係づけるように努力している。高位のイニシエートは、これら意味と原因と存在の三つの世界の力を、サナット・クマラの目的を実行するために活用する。

新時代の弟子道6」 p.65

以上の根本的な理屈を、本論における「憎悪」を例として簡潔に示す。

  1. 「憎悪とは何か」と問うのが意味の世界である。憎悪というものの仕組みを知的に理解することが意味の世界での目標である。
  2. 「憎悪という命名を行わない」のが原因の世界の基本である。弟子は「憎悪自体」つまり単なるアストラル界のフォース自体を見てエネルギーに変性させることを魂として学ぶ。
  3. 「憎悪と私は関係がない」と言わせるのが存在の世界である。「憎悪があるならそうあらしめればいい」という反応である。イニシエートはこのとき、魂として魂自身である存在の世界に集中しているため、錯覚の世界の話はどうでもいいのである。

1と2の段階にかなり飛躍があることが分かるだろう。それは、魂を発見しているか否かの問題なのである。上の数字は、実際はその数字のイニシエーションと関係している。したがって、人類にとって最も難易度の高いイニシエーションは第二イニシエーションである。にも関わらず、「悟り」や「真我実現」などに初心者は魅了されるため、自身に必要とされている当面の目標が分からず、高位の弟子やイニシエートの状態を目標とみなし、霊的なメカニズムが未発達なまま努力するのである。しかしながら、存在の世界は努力や行為とは関係がなく、また個人とも何の関係もないのである。

クリシュナムルティは意味の世界を教えている

クリシュナムルティは、「憎悪とは何か」という意味を教えようとしているが、そのアプローチは「存在の世界」からのものである。クリシュナムルティの話が難解だと言われたり、読んだ後に「何かすっきりしない」と感じられたりするのは、われわれにはまだ、存在の世界つまり魂とそれ以上の世界のことが分からないからである。そして、その世界からの意識の働きを知らないからである。言い換えると、高位のイニシエートが意味の世界を乗り越えさせるべく解説するとき、あのような話になるのである。つまり、初心者にはできないことを、クリシュナムルティはその意識の高みから解説しており、結果として晩年、「私の話を理解する者は一人もいなかった」と彼は言わざるをえなかった。

魂の認識前のアストラル的な対処法

質問者は、「憎悪を抱くことが苦しい」と言っている。これはアストラル界の問題である。そして、アストラル界の問題は、それ以上の界層の力でしか解決できない。低位メンタル界では、意味を学ぶことはできる。なぜ自分が他人に憎悪を抱くのかを理解するのである。例えば、あの人は生意気だから許せないという自身のプライドが憎悪の原因ではないか、などと精神の構造を理解しようとするのである。これは必要な重要な段階ではあるが、永久に頭の世界に停滞させることになる。

次の段階に進むには、クリシュナムルティが言うように、「命名」をやめる必要がある。「憎悪自体」の感覚を見る必要がある。すなわち、憎悪と呼ばれているものの実質的なフォースである。しかしながら、このフォースを見たり動かしたり変性させたりするには、魂の目が必要であり、魂として在ること――融合意識が多少なりとも要求されるのである。となると、質問者は、意味の世界で「憎悪」を理解することしかできないことになる。つまりは、魂を認識する前には、アストラル界のフォースには無力であり、対処法などないことが先に教えられねばならないのである。

どうすれば魂を認識できるか

結論を言うと、個人には魂の認識を引き起こす能力は全くない。この言葉に衝撃を受けるのは個人として達成しようと考えている者だけである。われわれは簡単に「悟り」とか「サマーディー」などと言うが、それは今のあなたが死ぬことなのである。これが個人にできるわけがないではないか。あらゆる個人の無力が先に知られねばならないのである。そういう意味で、ブラヴァツキーが言うように、「条件づけられた存在から自分自身を解放することが、人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において行為は役に立つ」。

クリシュナムルティもまた、同じことを言っているのである。

あなたは自我を解放できない。あなた自身がこの不幸の根源である以上、「自我」を滅する「方法」を求めていては、ほかならぬ自我の滅却過程であなたは別の「自我」を作り上げてしまうであろう。

「クリシュナムルティの瞑想録」p.47

われわれは、個人の探求者たちに、無意味なことをしている可能性を示唆しているのである。その無意味なことをさせる力を知らず、自分が力の源にして行為者だと思い、自分として高い段階に達しようとか、霊的な体験を得ようとか考えることが、全くの考え違いであることを直に伝えたいのである。読書家はこれを理論では分かっている。「だから私は明け渡す必要があるのです」と言う。しかし、明け渡しもまた行為や努力ではないのである。

再び、どうすればいいか

いかなるものであれ、霊的欲望は諦められねばならない。そのような欲望が錯覚だからである。勝手に個人が作り上げた存在しない欲望、存在しないものを求める個人の動きでしかないからである。例えば「魂」とは何か。見出す前の者にとっては概念や観念でしかない。このような想念への執着すらなくならねばならないのである。

そのために瞑想が存在している。瞑想とは、無力な個人に、無意識のうちに、力ある真我が働きかけてくれることである。では、瞑想する者が世界中に驚くほど多く存在しているのに、真我からの働きかけが彼らに作用していないように見えるのはなぜか。簡単なことである。瞑想中、自分の霊的欲望を見て、そのために瞑想しているからである。よって、アストラル界の連中に憑依されたり、「メッセージ」を受けたり、特別な存在であると言われたり、アストラル的な危険な現象に遭遇する者が後を絶たないのである。これは、正しい性格、純粋な精神、清潔な心といった前提条件なしに、つまり知的ではなくアストラル的に瞑想するからそうなることを、誰も聞く耳を持たないほど、欲望が強いからなのである。

魂の認識を妨げているのは、このような私的な欲望であり、アストラル界のフォースである。だからといって、これをどうにかしようと個人でしてはならない。憎悪があるなら、その憎悪の意味を知るのは良いが、最も賢明なのは、憎悪自体に注目を注がないことである。したがってジュワル・クール覚者は次のように言っている。

分離した自我については何も気にしないことにどんな効能があるかにあなたが気づきますように。

新時代の弟子道5」p.150

結論

憎悪などのアストラル的な問題に、個人では対処法はない。魂を見出し、魂的意識からであれば、簡単に無力化できる。この魂を見出すためには瞑想が最も有効だが、多くの個人が自身の霊的欲望のために瞑想を行っているため、そのようなフォースに惑わされて、つまりグラマーに圧倒されて、魂が分からないのである。

ここをよく理解してもらいたい。真剣であるならば、よくよく考えてもらいたい。人間の心とは、低位亜界の物質で構成されている間は、その性質上、邪悪寄りである。そしてその醜悪さを理解しようとも思わないものである。しかし、探求者はこの妨げる理屈を自身に照らし合わせて把握し、どのような錯覚や間違いに自身が条件づけられているのかを理解しなければならない。

左を見るかぎり右が見えないように、何か別の方向を見ていることに気づき、その見ている「何か」に気づいたら、そのとき、われわれはそれを「見た」ことになるのである。このとき、クリシュナムルティの言う「変革」が瞬時に起こる。それは消え去るのである。あるいは、少なくともその馬鹿馬鹿しさを喜ばしく理解し、その錯覚がいかに無意味で無知なものであったかを知ったその理解に喜ぶのである。これがイルミネーションである。こうして弟子は、魂のイルミネーションに照らされるようになり、自身の問題を魂として解決できるようになる。

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