人間の普通の意識から、魂の意識に入るという、アンターカラナという概念で言えば前半、ここについて書き続けているのは、この基本に関する情報が少なく、そのため人間の普通の意識で修練し、行き詰まっている人が多いと感じるからである。一方で、アンターカラナの後半が完了した聖者と見なされる方々の情報は容易に手に入るため、基本が知られぬままの瞑想が自我に弄ばれており、ありのままの神性が霊的な欲求の対象となり果て、それがかえって到達できない瞑想者としての苦しみを生み出す要因になっているからである。
正直に言うと、昔書いていたとき、悟りたいと思っている人が多いことに驚いた。そういう動機で瞑想を始めていることに危険を感じた。と同時に、そうした欲求と関わっているから「達成」できないことに気づいた。また、そういった犠牲者の心情につけこむ商売が増えてしまう理由も理解できた。したがって何度か引用したことのある以下のような状態に陥りがちである。
瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。
アリス・ベイリー 「魂の光」 p.402
では瞑想とはどういうものなのか。
真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。
アリス・ベイリー 「魂の光」 p.402
これを知らないならば、自我で瞑想し、自我意識で努力をしてしまう。瞑想に、何か「すること」があると思ってしまう。瞑想が魂とマインドに関するものであるなら、「魂との接触が先に起こらねばならない」ため、自我意識を魂意識にすることが瞑想の前提であることを知る必要がある。これをラマナ・マハリシの言葉でいえば次のようになる。
真我探究で起こることは、「私」という想念が消え去り、探究を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。
ラマナ・マハルシ 「あるがままに」p.102
この基本よりも、「探求を始めた私」が強いため、自我でも出来る修行が人気である。しかし、どのような修行の動機も自我のものであり、それは自我を強くするだけになる。我々は、これを今は理論的に書いているが、実際の瞑想では、知識や理論とは全く関わらず、マインド(自我)に対する魂(我々)の働きかけという自然状態の維持に関わるのである。つまり、魂からマインドというベクトルを維持できなくさせるのは、魂(我々)がマインドと同一化する傾向が最初は強いからである。それで、自我意識を知覚していると思い込むようになる。
魂(我々)がマインドと同一化するとき、それは外へ向かうマインドであり、対象化である。マインドに対する魂の働きかけは、その逆である。それをニサルガダッタ・マハラジの言葉で表すならば以下である。
反対方向に向かい、あなたの存在の源泉へと戻りなさいと、もし私が言ったなら、その言葉はあなたにとって意味を為すだろうか?
「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」 p.133
ニサルガダッタ・マハラジの言葉が意味を為さない可能性が高いのは、それを自我がするのではなく、魂である我々つまり魂の意識を知っている我々(意識)が行うものであることを、少なくともここでは解説していないためである。普通に読むなら、自我はその自分で、言われたことをしようとするだろう。「私は在る」も「私は誰か」も、反対方向に向かうためのものであるが、それを行うのは魂である。この重要事項に対する解説が、アリス・ベイリーの本を除いて欠落している場合が多く、魂とマインドではなく、マインドとマインドで瞑想が行われている。