不浄な肉体について再考を促す

意識には段階があり、まだ瞑想するには適さない方々が多いのも事実である。色々質問が来ているが、あまり私に頼らないようにし、忍耐する時期が誰にでもあることを早めに覚えるべきである。瞑想はメンタル体と魂に関するものであるが、はっきり言うと、アストラル体の統御はおろか、肉体の統御すら完了していない方々が多い。彼らの目標はまだ瞑想ではなく、瞑想に適した肉体に仕上げ、肉体エレメンタルの欲求を統御できるようになることである。

たとえば、多くの者が食べすぎである。言い換えると、肉体が不浄な状態にある。通常の者は、ごく少量を1日1食とか、数日に1食とかで十分なはずである。慣れてくれば食べる必要性からも徐々に解放されるだろうし、全く食べないでよくなる者もいくらか出てくるだろう。食べすぎの現代人である場合、肉体が常にぞんざいに扱われ、苦しんでおり、ゆえに絶えず病気に向かわされている。個人差はあれど、かなり肉体は頑丈で、痛みに耐えうるように出来てはいるが、若者の肉体を過ぎ始めると、徐々に病気や不調に直面しゆくだろう。自身でメンテナンスする能力を持たず、欲を統御せずに肉的快楽を楽しみに生きる場合、肉体は死に向かうより他になく、霊的なエネルギーの伝導体になるにはあまりにも不潔である。

何であれ欲を満たすとき、それだけ霊性からは遠ざかり、辛いしっぺ返しで学ぶ未来を作り出すだけである。どの体の欲であれ、所詮はフォースに過ぎず、霊的エネルギーには太刀打ちできないが、このような神聖エネルギーが流入できるような肉体やエーテル体ではないため、第一イニシエーションが目標であるにもかかわらず、聖者の本に感化され、第三イニシエーションが目標だと思っている無知な者のなんと多いことか。いわゆる聖者や悟った者とは、変容のイニシエーションつまり第三イニシエーションを通過した存在であり、その前に第二と第一を通過している。言い換えると、メンタル体の統御の前に、アストラル体と肉体を統御し終えている。自身がどの段階であるかを客観的に見極めることが基本であり、さもなければ何の進歩もないだろう。

しばらく前に、糖尿病を治せるかと言われた。仮に治せたとして、その者に何の意味があるかを考えてほしい。肉体エレメンタルを統御できず、食べたいものを好きなだけ食べるような者の宿業である病気を勝手に治療するならば、私はその者の魂の計画を邪魔することになるだろう。糖尿病が何を意味するのかを自ら学び、反省点を見つけ出し、欲には代償があることを認め、霊的に生き直すことで自ら治療しなければならない。糖尿病は、肉体の欲の統御で治るはずである。それを自分で学び取らねばならない。医学的な根拠や理論から入りたい者は、日本人なら甲田光雄が役立つだろう。糖尿病について話している動画があったから貼っておく。

死が怖いという質問も来ていたが、病んでいる者からすれば、死は大変歓迎すべき解放である。死が怖いといったイリュージョンも一種の病気である。肉体が自分であるという前提の質問には何とも答えようがない。まず自身つまり諸体を浄化し、神聖なエネルギーの伝導体になり、諸々のフォースをそのようなエネルギーで置き換えられるようになるまでは――つまり見習いの弟子になるまでは――グラマーやイリュージョンといった錯覚には無力である。ジュワル・クールがアンターカラナを強調したのは、まず個人を自身の魂と接触させるためである。自身が魂であることを理解し、魂の意識に安らげるほど諸体を浄化するならば、肉体の死を恐れることはありえない。むしろ、肉体に限定されている現状の方が遥かに恐ろしいことを理解するだろう。

見習いの弟子ではなく弟子になったとき、魂的な無関心により、変性の必要性はなくなりゆくだろう。自動的になるだろう。死について考えなくなるだろう。見習いの弟子は注目を使用して変性を行うが、弟子の場合はもはや注目しないため、何事も問題にならない。死を考えれば考えるほど、あるいは恐怖に注目を与えれば与えるほど、そのようなフォースを増幅させ、飲み込まれてしまうだろう。そんなことより、どう人類に奉仕すべきかを考えられるようになってもらいたい。奉仕する余裕は到底ないとしばしば反論されることがある。その場合は、瞑想による自己浄化を奉仕と思うように言うことがあるが、聖者の本ばかり読んで瞑想しない者が多いのも事実であり、それはまだ瞑想ではなく学習の段階にとどまっていることを意味している。本は、一時的に慰めになるかもしれないが、実践的ではない。実践を身につけさせてはくれない。かといって、瞑想の準備ができている者も少ないため、精神的弱者を情緒的に慰める類いの本なり宗教なり、あるいはその人にとっての師や「覚者」に簡単に騙されることになる。識別力が働かないのである。

魂と繋がるまでは、ひたすら闇である。分離しているかぎりはひたすら苦痛である。魂と繋がるならば抱えてきた重荷はすっかり下ろされ、軽々しく自由になる。それまでは、目の前の、身の丈に合った自身の課題が重要であり、一つずつ、自身で問題を解決することである。自身がどの位置にあり、何が当面の課題であるかをしっかりわきまえ、飛躍することなく、冷静に、ゆっくり、着実に、道を歩んでもらいたい。

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