初心者つまり錯覚中の者は、外的な物事が問題だと思っている。不幸が起きればその不幸をどうにかしようとしたり、嫌いな者がいればその者をどうにかしようとするか、嫌いな者に対する自身のよくない態度を改めようと理論的に努力する。このような錯覚は、見えているものや、出来事や、世界を、まさに実在とする錯覚の態度によって起きている。考え方や、やり方というものが、全く間違っている。通常の人間には到底理解できなくても、道を歩んでいるような弟子たちは、この根本的な見当違いについて目を見開かねばならぬ。たとえば瞑想で説明しよう。
最も初心者の瞑想は、他人の真似をするか、教えられたことを行う瞑想であり、ほとんど成果は得られないことを理解するだけである。彼らは瞑想中に騒ぐ。自分でどうにかしようと騒ぐ。「その自分」が統御の対象であることが分からないのである。その自分を特定の行為に駆り立てるのは諸体のフォースである。その自分が情緒や想念などに動かされるがままになっているのが平均的な人間の様態である。これは、働きかけるべき対象が分からない状態を意味している。加えて、何が働きかける主体なのかも理解していない状態を意味している。
第三イニシエーションまでの弟子が扱うのは魂のエネルギーであり、彼らはこのエネルギーを強調し扱うことで、低位我のあらゆるフォースを無効化し、高位に引き上げるのが職務である。彼らはこの霊的職務を完全に理解しており、意識的に日常の中でこのようなことを行っている、もしくは、行われることが自身によって遮断されないよう、注目を対象に集中している。
簡単な例を挙げよう。人に侮辱されたとしよう。無知な者は、侮辱した相手を殴ったり侮辱し返したり恨んだりするだろう。知恵ある者は、侮辱というこの世のカルマ的演出で生じた自身の情緒や想念のフォースを統御する。これが、結果の世界を実在と信じて結果の世界で対処する知的に未開発な人間と、背後の世界つまり自身の内部で自身を動かそうとする力を統御するオカルト的な知性との違いである。ゆえに賢き者は、何が起ころうとも自身さえ統御できていれば問題ないことを知っている。無知な者は、自身に危害を及ぼすものを常に怖れ、その相手や物事をどうにかしようとするが、賢き者は、怖れという自身の無知によって生じているように感じられるだけのフォースにまず対処し、そのうえで必要なことがあれば無執着に何かしら行うだけである。一方は恐怖や激怒の餌食になるが、一方は愛の主である魂からまず歪んだ情緒や想念を解消し、喜びと霊的な幸福が維持されたままに何事も行われることに気づいている。
瞑想も同じである。初心者は瞑想で何かをしようとするか、何かをすべきものだと思っている。熟練してくると、そのような自我を魂として統御すべきであることに気づく。自我とは、アストラル的もしくはメンタル的なフォースの束でしかなく、したがって賢明な弟子は、何かをしようとか、そう条件づけてくるフォースにだけ対処する。このようにして諸体を魂に整列させるのである。完全に整列させるためには最後はマインドを一点に集中させる高位の力を邪魔しないよう集中に協力し、パーソナリティーと魂は一致協力して集中の彼岸へと融合しゆく。
この世で起きることは変えられないし変える必要がない。起きることに影響を受けさえしなければいいのではないのか。嫌なことが起きても、そこから影響を受けなければ、嫌なことも特に問題ではなくなることを誰でも理屈では理解できるだろう。視点の違いである。この結果という世界でもがいても何ら意味はない。結果に影響を受けぬよう、結果から喚起されるフォースをいかに統御するかだけが問題である。明瞭にするためにいくつか引用しよう。
私は、エネルギーの存在を認識することの必要性を首尾一貫して強調してきた。オカルティズム(もしくは秘教)において、私たちは「エネルギー」という言葉を霊的な領域とその霊的な存在つまり魂の生き生きとした活動を意味するものとして使っている。「フォース」という言葉は様々な自然王国の領域での形態性質の活動を意味するものとして使っている。これは、際立って興味深い点であり、違いが示されている。
したがって、刺激とは、エネルギーがフォースに与える影響と定義してもよいであろう。それは、魂が形態に与える影響、神性の高位表現がいわゆる低位表現に与える影響である。
ジュワル・クール「秘教心理学 第二巻(下)」 p.71
フォースではなく、エネルギーを分配しなければならない。……高位のイニシエートになるまで、エネルギーを分配することはほとんどない。初心者である彼はフォースを扱っており、それらのフォースは三界に関係したものである。
新時代の弟子道2 p.138
弟子はフォースとエネルギーを識別し始めている。弟子の道において彼は魂のエネルギーを扱い始める。これがフォースを支配するようになる。
グラマー p.60
全ての弟子たちは、生来備わっている所有権により自分のものであるフォースとエネルギーを活用することを学ばなければならない。これらエネルギーとフォースを、平均的な人々が理解した上で活用することは稀でしかない。彼らは通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない。
新時代の弟子道3 p.61
弟子はやがて、自分自身が(転生している間)他の何ものにもまして、フォースを方向づける者であることを知るようになる。フォースを彼は聖なる観察者の高みから無関心の達成を通して方向づける。これは私がこれまで何度も述べてきたことである。これらの真理はあなた方にとって単なる秘教の決まり文句でしかないが、もしあなた方が無執着の完全な意味を把握し、観察する監督者として平静でいられさえすれば、いま以上の無駄な動き、間違った行動、誤った解釈、日常生活での横道への迷い出し、歪曲され偏見に満ちたヴィジョンを通して他の人々を見ること、そして――何にもまして――いま以上にフォースを誤用することはなくなるであろう。
繰り返し繰り返し、時代を通して、大師方は弟子たちに秘教徒はフォースの世界で働くと述べてきた。すべての人間がこの同じ世界、絶えず動き、絶えず衝撃を与え、出たり入ったりするエネルギーの世界の中で、そしてその世界を通して、生き、動き、自らを表現している。しかし、秘教徒はそこで働くのである。
グラマー p.286
通常の人間つまり自我意識の単位は、ただフォースに条件づけられているだけだが、自身を主体的な存在だと錯覚している。瞑想で魂と繋がるようになることが最初の基本である。その後、フォースではなく、魂のエネルギーだけが重要であることを理解するだろう。低位我の、もしくは三界のフォースは、我々を条件づけるものであるのに対して、魂のエネルギーは、それらを瞬時に統御するものである。したがって、われわれが最初に知る霊的な意志とは、魂の意志様相である。それが行為者である。ところが、現状、われわれはフォースに条件づけられており、それを行為と思っている。この最後の文章を誰が理解するであろうか。私はこの世の裏技のような話をしている。この世にありながらこの世に影響を受けないでいられる者の秘密に関して話している。ぜひ解読してもらいたい。頭ではなく瞑想で。考察ではなく沈黙で。知識ではなく集中で。行為ではなく無為で。フォースではなくエネルギーで。
