ニサルガダッタ・マハラジの「私がある」に留まるという方法やルパート・スパイラの「気づきに気づく」という方法は自我意識のままでは効果がないのかという質問について。私はルパート・スパイラを知らないため、どの観点から「気づきに気づく」を話すべきか分からない。自我に教えているのならば、一定の効果はあるかもしれないが、その根本もしくは諸悪の根源である自我の「効果を得たい」という霊的野心もしくは霊的欲望については気づかれていないため、ほぼ無意味だろう。到着しているのにそれに気づかず、別の幻めいた到着を待っているようなものであり、「わたしじしん」からは永遠に逃避したままになるだろう。
ニサルガダッタ・マハラジの「私は在る」は、そのような自我つまり諸体が魂に整列した後に知られる意識状態もしくは存在の状態で当たり前のこととして理解されるものであり、活発なマインドを維持しているかぎり、そして活発な情緒(効果を得たいという性急さも含まれる)などに気づきを投げかけていないかぎり、理解不能なままだろう。
まず、「方法」という考え方が間違っている。自分が行為者であるという感覚があるときだけ、方法なる概念は存在する。自我の意志と神の意志が識別されたあとは、特定の行為者など存在しないことが理解されるだろう。自我意識のとき、自分が行為者であるとマインドが思わせるため、全く不要な努力をすることになる。ブラヴァツキーが言うように、努力とは、あるいは行為とは、「条件づけられた存在から自分自身を解放することが、人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において役に立つ」だけであり、行為者だと思わせるマインドが魂の中に溶け去ったとき、何もしなくてよかったことが知られるだろう。するのは神であることが知られるだろう。したがって、すべての背後に神が知られるのである。
私も質問者のような時期を過ごした。いくつもの「方法」を試した。基本的に無意味なことをしただけであり、その無意味さに気づくためだけに役立った。真実は、ラマナ・マハルシが言う通り、「真我探究で起こることは、私という想念が消え去り、探究を始めた私ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである」ということである。これが起きるほど成熟するまでは、人間はまだ元気であり、色々と試し、あらゆる師や書物をはしごし、どれも自分に役立たないこと、効果がないことに打ちひしがれるだけである。これが世に言う魂の闇夜の時期であり、ここに個人的な複数の不幸が重なろうものなら、自殺したくなるだろう。この時期は、何の霊的達成もない。諸体がある段階にまで浄化精製されるまでは、自我意識は悲惨なまでの苦悩を味わう。この痛ましいまでの時期を、すべての真の弟子は過去に経験し独力で乗り越えている。誰の助けもなく、孤独に乗り越えられねばならないものである。でなければ何の意味もない。したがって、この時期に学ぶことは忍耐と諦念である。ひたすら耐えるしかない。ひたすら自分について諦めるしかない。そして、自分はどうでもいいから、正しいことに生きさせてくださいと願うより他にない。自分を忘れて、放棄して、すべての兄弟姉妹への善にのみ生きたいという渇望が生まれねばならない。これがこの時期の最高の近道である。
ラマナの言う深淵から立ち現れる者、つまり魂が知られたならば、そのとき自我は、魂を神のように感じるだろう。あまりに素晴らしいから。すべての苦悩は喜びに変わる。たとえようもない至福の喜びである。これがキリストの再臨の真の意味である。外的に現れるキリストではなく、内なるキリストが来られたとき、なぜ彼が救い主と呼ばれるかを体験するだろう。つまり救われる。この世は超越され、天国が知られる。そのとき、我々はただ在る。したがって、私は在るは方法ではなかったのである。自我が内なるキリストによって統御され救われたとき、純粋な存在の状態が知られるだろう。そのとき、当然ながらマインドは押し黙り、もはや遮ることも曲解することもなく、ありのままに我とすべてが知られ、極楽に安らぐだろう。
ここに至るまで、自我は霊的な状態とは真逆のことをするだろう。「在る」と「する」の違いが分からず、「在ろうとする」ことしかできないだろう。在ろうとすることは苦痛でしかない。「私は在る」は、ニサルガダッタ・マハラジが通った道であり、何百万人が模倣しようとして失敗してきたように、自我が真似ることで理解できる類いのものではない。クリシュナムルティは、各々はオリジナルの道を開拓しなければならないと言ったが、彼が言っていることが事実だ。様々な聖者の真似や教えに従う時期もあるだろうが、結局は独り立ちしなければならない。自ら見出してやろうという気概が必要である。しかし、その方向性は良いが、気概を持つ者が静かになるまでは、内なるキリストは知られぬままである。そして自我を静かにするのは自我ではなく、それ以上の存在によってであり、それを学ぶのが瞑想である。いかに瞑想が自我の方法とは真逆のものであるかを知らねばならない。まだ気づいていないであろうが、恩寵とも呼ぶべき力が常に導こうとしている。ところが、あなたが自己流つまり自我流の何かをすることで、恩寵が妨げられている状態である。客観や概念や想念や知識を見るのではなく、それらの既知は明け渡して、全放棄して、赤子のように裸で瞑想には向かわねばならぬ。知識ばかり蓄える者ほど到達しないのはこれが分からないからである。それらは最初に捨てられねばならない。マインドは静められねばならない。そして、静める力が現れることが先に起こるべきことである。
繰り返し極意を述べるが、自分に関しては諦めることである。自我に固執してはならない。そして夜が明けるまでは、それがいかに暗黒であろうと耐えることを習得しなければならない。これは簡単なことではないが、耐えるよりほかにないのである。後に、この忍耐と諦念がどれほど科学的に有効なものであったかをオカルト的に理解するだろう。書物は、ほんの初期段階だけ支えるものであり、それ以降は邪魔なものでしかない。自ら見出すことができるようになっており、そのように恩寵は導こうとしている。裸で、自分一人でおのれに向かう勇気と決意がなければならない。やがて、今回のような質問も含めて、あらゆる質問に簡単に自分で答えられるようになるだろう。強さは内在している。自我は弱いため、内なる強さに頼るしか方法はない。これらを学ぶには時間がかかるが、逃避すればより苦しくなるだけであるため、自ら立ち向かうしか方法はなくなる。このようにして強くなるだろう。強さと合一するだろう。そしてその領域に触れられるものはなく、愛と慈悲においておのれは無敵になるだろう。天国は美と喜びに満ちている。しかし、あらゆる聖人が述べてきたように、天の御国に入るためには、すべてを放棄する必要がある。放棄するから入れてください、ではない。これでは入れない。なぜ放棄すべきなのかを理解したときだけ放棄は可能になる。知恵が訪れねばならない。しかし、これらすべては真の瞑想で達成することができる。
