許しに関するいくつかの質問

「この世ですることがなくなったかのようです」と言い、その方は心境の変化に狼狽していた。昔から言っているが、弟子がある段階に到達したとき、彼はこの世のものに興味がなくなる。言い換えると、何も楽しいとは思えなくなる。むしろ、何事も楽しくないと感じるようになる。他人が羨むような環境にありながら、普通の人には不可能な多くを手に入れられたり、多くを体験できうる環境であったりしながら、そのいずれにも無感情になる。こうして「することがなくなった」「することができなくなった」と感じるのである。

意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力が始まる。

アリス・ベイリー「魂の光」p.381

それまでは「する」が当たり前だったし、何かしら「する」ことがあっただろう。もはや何もないし、何もできない。個人が行うということが終わりつつあるのである。そもそも、何かをする必要がある、という固定観念が人の根底にはある。だからこそ、「する」が欠け落ちると困るのである。泳ぎを止めると死ぬ魚のごとく、「する」をやめると低位諸体は養分不足で死ぬがゆえ、「何かしないと」と人は言い焦る。一方で瞑想は、「なぜ何もしないことが極上でありうるのか」を教える至極の学問である。低位我に生きるならば何かをする必要がある。意識において低位我よりも高位我がはっきり優勢になった後、人は「することがなくなった」と言うのである。この事実に狼狽してはならない。「何もしなくてよいこと」の意味や意義を、「存在」を見出すことで理解しなければならない。つまり、意識をこれまで以上に外から内へと向け直し、「あるがまま」という存在の状態に安らぐことの尊さを学び取らねばならない。すると美しくなるだろう。真の喜びや至福が顕現するだろう。このようにして人は高位我と融合するのである。

「何かをしなければ」と諸体に条件づけられそうなときは、「何もしなくていい」という許しを思い出すべきである。別の方の質問に移る。「嫉妬してしまう自分が嫌になる。一体全体、嫉妬とは何でしょうか」と言うのである。嫉妬は、一体性という事実が人間によって歪められたときに生じる独占欲が根底にある。好きな人を誰かに奪われたとしよう。あなたは取った者に嫉妬する。なぜなら、好きな人に値するのは自分であるべきだ、という歪められた一体性である独占欲が働くからだ。あるいは、友人は最新の高級車を乗り回し、自分は型落ちの中古車だとするならば、彼は友人を羨む。嫉妬と同義語である自己憐憫に逃避する者も多い。「どうせ自分には」と言い、駄目な自分を演じることで様々な負の感情を体験しようとするのである。これらもまた、低位我つまり低位諸体に生き、それらに動かされているだけの意識が経験する諸体の飢えとその劣った餌やりである。高位我を知らぬゆえ、価値の基準が甚だ破綻しており、魂の普遍的な愛や喜びではなく、この世の者やモノのある無しが自我の基盤を揺るがす状態にまで堕落し、迷いや幻の中にしか生きられなくなっている。

この質問者は、「嫉妬しがちな自分ではいけない」と思っている。私なら、そのような情緒的想念から無視し始めるだろう。そこで思い出したが、前に治療していたとき、「便秘は治療できるか」と言ってきた女性がいた。便秘で何が困るのかと聞くと、便が出ないことに決まっているでしょうと言われた。違うだろう。便が出ないことによる苦痛が嫌なのではないか。便が出なくて幸福ならばその者が困ることはない。不快な感覚知覚が問題なのであり、便を出すことは真の問題解決ではないことを説明したことがある。何が言いたいのか。便を出すことではなく、不快な感覚そのものに注意と意識を向けることで便秘は副次的に解消されるだろうということである。これが、便を出すという「結果」にこだわる初心者と、便秘による不快な感覚そのものを扱う脱初心者との違いである。

話を戻すと、この嫉妬に悩む質問者は、嫉妬しない自分になりたがっている。違うだろう。嫉妬による苦しみが問題なのではないか。嫉妬自体はどうでもいい。嫉妬に伴う苦悩の感覚自体を見よと言っているのである。眉間から、ありのままに自身と感覚とを見るのである。何も起こりません、などと言う者は、どうにかしようとしている愚か者である。純粋にただ見ることができるならば、そのような感情は存在していないことを知るだろう。また、なぜ存在しているかのように感じられたかの原因も特定するだろう。本質的に、我々は一体であるゆえ、人間ですら本当はすべての人と仲良くしたいのである。しかし、自分を個人に限定しているゆえ、その個人が独占すべきものがある、もしくはなければならないと錯覚する。あの人に値するのは私のみだと思う。あの地位に、あの女に、あの車に、あの環境に、あの称賛に値するのは私のみであると分離した個我は思わせたがる。これら独占欲は、すべてに最初から値し、すべてを最初から所有している真我の一体性が、個人のレベルに堕落したときに生じるものである。

嫉妬深い自分をどうこうしようとするのではなく、嫉妬という情緒的想念と、むしろ共に在り、あるがままを許し、そして批判なくありのままに実態を見ることができるようになるとき、そもそも存在していなかったことを知るであろう。道徳の授業ならば嫉妬は駄目だと教えるだろう。子供にはそれでいい。発達した大人には、共存せよと私なら教える。なぜなら、嫉妬とあなたは同じものだからである。したがって嫉妬を許しなさいと教える。嫉妬していいと教える。そうるうことで、共に在れ。すると、嫉妬をどうこうしようという抵抗がなくなるゆえ、錯覚の方が先に消え去るであろう。そして、嫉妬は理解ある思いやりへと置き換わり、思いやりは普遍的な愛へとあなたを連れ戻すだろう。連れ戻された後、すべてが連れ戻すための演出でしかなかったことを知るだろう。このように、日常の小さなことから真理を学ぶことができる。頭では学べないが、頭を超えた知性があることを知り、そこで我々は霊知を学ぶのであり、その学び方を徐々に人間に教えるのが日々の瞑想である。

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