簡単に言うと、正しい波動と間違った波動の二つしかない。前者を知覚できず後者に生きているのが人間である。瞑想は、前者の波動や波長を人間に教えるものである。間違った波動を除去しようとしたり、抑えようとすることではなく、正しい波動と一体になることで、間違った波動に関わらせない神性を教えるものである。これが高位の波動を維持した状態である。この状態を安定させることが、日常を含めた瞑想の目標である。
以上は簡潔な規定であり、闇雲に瞑想を模索する人の指標になる。われわれは、言葉や概念に生きている。間違った波動にはたくさんの種類があり、それぞれに人は名前をつけている。瞑想ならば雑念だとか空想だとか、あるいは日常ならば、怒りや恨みだとか、利己主義だとか、放蕩や大食だとか、いちいち命名し、イライラするなどと言いながら、気分や気持ちや状態をあらわす言葉で生きている。それらはすべて、ただ間違った波動である。間違った波動がさまざまな現れ方をしているだけで、その現れに対し命名する必要はない。瞑想は、この間違った波動を日頃から人に認識させるようになり、関わる必要がないことを教えるものである。こうして人は、思考、言葉、行為において、正しさを表現しはじめる。
誰かに罵られたとする。腹立たしい感情や情緒を自分のものだと人は解釈し、傷ついた心に相応の代償を相手に求めようとする。まだ人類は、われわれの兄弟姉妹は、この段階だということを切実に考えたい。その総和が世界であり、人々が悪や天災と命名するさまざまな現象を引き起こしている。われわれは、間違った波動しか知覚できず、間違った波動に条件づけられて生きることしかできないでいる。そして、自分を独立した自由意志のある人間だとみなし、主義主張やプライドを所有している。こういう人たちは苦しい生き方をしている。間違った波動をそのまま信じ、その波動が命ずるように考え、話し、行為する。つまり自動人形である。彼らは生きていると言うが、死んでいる。目覚めているというが、目覚めていない。博学だと言うが、知恵を知らない。ただ、間違った波動と正しい波動を識別できないのである。
瞑想は、間違った波動を落ち着かせる作用があり、その静けさのなか、正しい波動を見つけさせる。瞑想がいかに獲得ではないかが理解されるだろう。われわれは新たな意識や境地を獲得するために瞑想しているのではなく、ただ間違ったものを認識するために瞑想しているのである。こうして、間違った表現を”させるもの”を高みへ引き上げる過程、原理でないものを神聖化する過程、輪廻と呼ばれる犠牲に関与しているのである。自分が悟ったり、進化するために、自分にあてがわれた物質を克服しようとしているわけではない。このような霊的野心は、瞑想者が陥る典型的な間違った波動の表現である。だから結果を求め、瞑想の成果に固執しているのである。
根本的な問題が見えますか。正しい波動を知らないことである。この波長が見つからないために、あらゆる人が瞑想の名の下に無意味なことをしている。人間のすべての教育の目的は、何が正しいかを教えることである。それは言葉では教えられない。その正しさは概念や観念にはない。それらを含め、何が間違った波動の表現であるかを理解し、その理解の確かさに応じて間違ったものが自分を支配する力を失い、自身のなかに間違ったものが含まれなくなり、その純粋さに比例して、正しい波動が知覚できるようになるのである。
以上はシンプルな話である。しかし、自我はあらゆる不純の産物であり、その意識では何の正しさも感じられないために、自我の波動で、自我の延長線で、内在の精妙な宝を探しているのである。われわれはこれを無知と呼んでいる。静かなら、この内在の輝かしい音色を聴き取れる。人が美しい音楽に酔いしれるとき、彼はその波長に心地よさを感じているのである。真の芸術家は、内在の神聖さを表現することが目的であり、それによって何も感じない人たちに擬似的な体験や感受性を授け、その本物がすべての人の内側に在ることを示唆し教えるものである。普通の人が騒がしい音楽を好みバッハを理解できないように、もっと静かにならなければ、内なる音楽は理解できない。なぜ、秘教徒が諸体を精製するよう教えるかが理解されるだろう。静かになるとは、専門的には、諸体に高位亜界の物質を加えることである。低い等級の物質で諸体が構成されているならば、低い波動を好みはしても、高い波動を感じることはできないからである。この知識が本日、現実世界へ応用されますように。