魂の試験

仰ることは伝わるのですが、私は魂と接触できないのです。したがって、記事は私にとって現実的ではなく、ほとんど何もできない自分を悲観させるのです。……

この人は、困窮する貧しい生活のなか、瞑想に一縷の望みを託してきた。ポストを見れば請求書。毎日、金を手に入れようとして戦っている。それでも払うお金がない。取り立ててくるのは日本。この国で生きるためにはこれだけ払ってもらいたいと社会が言う。学がないこと、忍耐できずに職を転々としてきたのはあなたの責任だろうと世界が言う。義務を果たしなさい。金を払いなさい。「これが私にとっての現実なのです」。

この女性の気持ちが分からないわけではないが、同情や、痛みへの同調といったものはない。それは私が冷酷だからではなく、情緒という錯覚を克服しているからである。あなたは真の自分を見失っており、錯覚の自分とそれを取り巻く環境が脅迫材料になっている。起きることにどう対処するかが進歩の秘訣だということを知らないのですか。魂と接触できないと仰る。できるようになるために証明する必要があるのは、その惑わしてくる現実感のなかで、真の惑わしは出来事ではなく、出来事によって喚起させられたご自身の情緒もしくは情緒的思考であることを知り、出来事ではなく、自身の恐れや苦しみや逃れたいという気持ちを見ること、そしてまさに、見ることによってそれらが消え去り、私に影響を与えるものはなかったと、そう言える答えを見い出すことが、あなたである魂が課したテストであることが分かりませんか。貧困、請求書、貯金残高ゼロ、離婚、泣きわめく子供、頼る人間がいなくなってしまった現状、これらが試験のための演出だということを知らないのですか。

われわれは、明確にあなたのような環境をくぐり抜けてきている。例外なく、孤独に、それがいわば伏せられたテストだと分からない状況で、試験を突破してきている。私が記事で時に「血を流す」と表現するのは、そのようなテストで流された血である。考えうるすべてを捨て、誤った自身に関するいずれをも犠牲にし、それが子供との別れであれ、切り刻まれるプライドであれ、肉体の健康であれ、いかなる所有物も、捨て去るよう要求してくる魂の声に従い、そうすることで偽我と離別してきたのである。それが内に報酬を解放することを知った。惑わす演出のなか、魂の要求に合格したことを、われわれは内で体験してきたのである。間違ったものを手放したとき、もともとそこに在ったものを認識できるようになることをあなたは知らないのですか。ならば、あなたの苦悩は、いったい何を捨てられないからですか。

魂と接触できない。そうではなく、魂の声より自我の声を優先しているのである。正しい波動ではなく、間違った波動に尽くしているのである。誰が主人なのか。自我ではなく真我である。急速な進歩の秘訣は、日々の瞑想にはない。実際は日常に登場する。瞑想はそのための準備をさせるものでしかない。実際のテストが日常で行われるという、殻を破るための、この事実や秘訣を知らず、出来事にその隠された価値を見ることのできない者の、なんと多いことか。あなた方を試すためには現実感が必要であり、その現実感、つまり感覚が、あなたのように押しつぶされるのではなく、ただありのままに見られたとき、内なる眼が錯覚を貫くのである。苦悩であれ悲壮であれ、その感覚は消え去る。なかったものが、逃避していたゆえ、あったように感じられただけである。これが魂意識に入る前に行われるテストだということを覚えておくべきである。誰もが通った道だということを知ることで、それほど血を流さず、「放棄」や「識別」といった名の試験にいずれも合格できるだろう。

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