名医

心の病を患い、抗精神病薬や精神安定剤を服用しつつ、なお瞑想に希望を抱くことは可能なのか。様々なケースがあり、個々に慎重になる必要があるため、一般論として軽く概括はできない。ある教師は、このような場合は瞑想してはならないと説いている。換言すると、病院の薬を飲んで治療に専念し、瞑想や、霊的世界からはしばらく(つまりこの生涯では)立ち去ってくださいということである。なぜなら、瞑想によって精神の病気が悪化する者が多いからである。

瞑想は、およそ誰にでも開かれた扉ではなかったのか。精神を病んでいるだけで閉じられるような慈悲なき扉であったのか。ここで問題となるのは、適切な教師が個々についていないことである。精神が異常であればあるほど、自らの異常性を理解できないのは自明である。妄想の世界の住人ならば、一般生活はできないし、会話も成り立たない。高度なバランス感覚が要求される瞑想は論外となる。病状を悪化させたり、肉体を持たぬ者らに憑依されたりするよりは、自身の安定が先であることを強調するのが一般的には当たり前である。しかし、医師の判断、病院の薬、これらが病気を治し、安定させることが通常はないこともまた自明である。この問題は、時代と人類の問題である。

薬を飲みながら仕事や生活をなんとか乗り切っている人は多い。眠れないときは助けになり、心が苦しいときは気分を和らげてくれる。現代病といって差し支えないだろう。このような、簡単に言えば軽症である場合、瞑想は可能であり、医者では治せなくても自ら治せるようになるだろう。すぐに完治できずとも、治っている意識状態には随意に入れるようになるだろう。あとはそれを維持できるよう努めるだけである。ただし、自身の社会との関わりに対し細心の注意が必要であり、常識とバランス感覚が活用されている必要がある。瞑想が現実逃避の手段になるならば、その者の主人は恐怖であり、仕える主を強めるだろう。個人的な主に仕えることなく、正しい瞑想を通して正しく魂や真我をおのが主とするならば、それは病気を治し始めるだろう。真の名医はわれらが内にあることを驚嘆とともに見い出すだろう。なぜなら、勝手に、瞬時に治るからである。

社会や学校や病院は何を教えているのだろうか。教える者が病人なのに、どうして本質的な学びを与えうるだろうか。外側が病人であっても、彼の真我によって彼を蘇らせることが、すべての人類の兄弟愛の目標である。内なる名医と出会うことが難しくないことを言明したい。難しいのは、自我が自らに執着しているがゆえに難しいことを理解させることである。ある段階から、病気も含め、不調和というものは自ら治さなくてはならない。それだけの力が与えられるのである。極端な怪我や病気は無理でも、今回の記事や前回の質問が扱ったような精神的な不調和には簡単に対処できるようになるだろう。それは、精神的な病にかかることのない内なる魂を知ることによってである。内なる名医と融合することで治っていることを知るのである。同時に、何が病気の原因だったかを知るのである。だから、今病気を患っている人に教えられるのである。

この簡単な治療法が世に普及することを願っている。瞑想を通して自我を捨て、自我にしがみつく必要がないことを理解し、内在の真我と融合するのである。医者や製薬会社は困るだろうが、ありふれた病気は、人々が自ら内在の治癒の源泉に浴することで一秒で治す時代が来るだろう。学校が強いる知識による試験はなくなり、心の貧しい者が私利私欲のために医者や弁護士や教師になることはできなくなるだろう。真の教師、真の知恵、真の名医と接触し、融合させ、あらゆる意味で最高と呼ぶべき意識や存在を知るための手段が瞑想である。様々な人がおり、様々な瞑想法があり、何が本当で何を信じれば良いのか分からなくさせている現代だが、複雑にし、難解にしているのは、影響を受けている自分である。どのような霊的知識も実践とは関係ない。真我は、霊的教師が語ることを知らないし、関係してもいない。偉大な者たちは語ったかもしれないが、それは受け手と通信するための手段だったからであり、その概念や観念や知識は、理屈や方向性が分かったならば、捨て去らなければならないのである。教えを見たままでは真実は見えないのである。これは難しく感じられるが、その惑わしを突き破ってもらいたい。誠実な者には可能であることを信じ、不誠実な自我である自身を許してもらいたい。許し、衝突や摩擦がないなら、その錯覚で覆われていたものが立ち現れ、感じられ始めるだろう。最初はかすかなものかもしれないが、やがて強く、頻繁になり、最後には安定するだろう。生きるとは、この上なく美しいことだと言える自らを発見するだろう。彼が真我である。

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