疲れない生き方

道を歩いている人、働いている人の顔をふと見やるとき、それが一日の始まりであれ、労働の終わりであれ、顔が疲れている。疲労とは、単に波動の状態であり、それを未熟な知性が誤って解釈したものにすぎない。よく見ないで解釈されるため、疲労感であるとか、慢性疲労だとか、疲れが取れないなどと言って、娯楽や薬や惰眠に逃避しがちである。しかし、瞑想者は疲労しない。それが疲労ではないことを知っている。走った直後の脈打つ鼓動の速度や、重労働のあとの純粋な肉体の消耗については語っていない。多くの人が肉体的な疲労と感じているものは精神的なものである。つまり誤解釈である。よって疲労は超越できる。人は疲れなくてもよいのである。

世界では、人々がおしなべて生きることに疲れている。生きることがまるで嬉しくない。生じたいがもはや罰であるかのような顔をしている。生命を知らないのである。この無知をみなで克服したい。人類が、花のように……、みなで本来の喜びに溢れていたい。その喜びは幼少期にはあったが、長い歳月を経てなお忘れ去られたままである。それは環境や運命のせいではなく、自身の誤解釈によるものである。疲労感と言うように、それはただの感覚であり、感覚は何らかの波動の解釈である。つまり解釈する人、自分に由来している。この世界で、他人や出来事のせいにできるものは何ひとつとてない。すべて自分由来である。だからこそ、いずれも自分で解決できる。

その自分とは何なのか。われわれが疲労感と呼ぶ波動は、われわれが所有しなければならないものではない。他人や世の中のせいにするなら疲労は個人の所有物となるが、自分由来だと知るならば、疲労は直視の対象となる。この疲れとは何なのか。起きてすぐに疲れているのはなぜなのか。その感覚を見ることである。その感覚から逃げるならば疲労は蓄積し、やがて精神や肉体を蝕むだろう。繰り返すと、それは単に感覚である。言い換えれば波動である。疲労をただ見るならば、即時に疲労が消え去ることを知るだろう。疲労が打ち消されないならば、純粋に疲労を見ていない。疲労をどうにかしようと自我はする。魂の見地からすれば、何であれ、どうでもいい。疲労していても、疲労していなくても、どっちでもいい。全く無関心に、しかし真我の妨害に伴う”違和感”を魂は放置しないため、その眼は惑わす偽の動きを見ている。そして、見るとは、見られるものの存在を許容するものである。好き嫌いでものごとを見るならば、存在への許しがないため、価値観の波動にかき乱され、そのわがままゆえの波動を見て感じることになる。ただ見るとき、そこには何の動機も価値観も力みもありはしない。

われわれには無理だ、われわれには見ることはできないと人は言う。当たり前であり、むしろ気づくのが遅かったぐらいである。自我は無知無能である。何もできないし、何の力も元から与えられていない。なぜなら、自我は存在していないからである。自我は錯覚の結果であり、その原因ではない。われわれは、原因であって、結果ではない。真我であって、偽我ではない。瞑想者が最初に知るべき重要事項は、自我が瞑想するのではなく、瞑想しているのは内なる魂であることを知ることである。自我は瞑想できない。魂の正しく美しい波動が、自我という波動を打ち消すのである。だから、自我で瞑想している錯覚や努力に浸るのも良いが、何十年も瞑想して進歩なく苦しんでいるならば、自我の無力について真剣に考え、受け入れ、自我ができることは何ひとつなく、自我は変性させられる側でしかないことを絶えず覚えておくことである。なぜなら、日常生活から、自我は自身の非存在性を忘れ、好き嫌いや不平不満に惑わされ、不快なものを変えようとか、変える力を行使しようとか、変えるために行為しようとか、存在していない自分から考える癖にかまけているからである。

今回は「疲労」という一つの現代病の側面から書いたが、喜びがなく、愛がなく、生きていて美しくないならば、何かしら間違いがあり、その間違いは自分由来であり、したがって自身の内部で、しかも自身の内部でのみ、解消できうることを知ってもらいたい。生の不快、自分という負債に疲労したならば、帰ってきてもらいたい。その疲労から逃れるのではなく、またその疲労を別の何かに変えるのではなく、それらにしがみつくのをやめるのである。疲労していることを許さねばならない。こうしてはじめて視力が開きはじめる。ありのままに見るという技術が自我ならぬものによって教えられる。われわれは魂である。すでに魂である。感じられないことが問題になっており、その原因は自分という錯覚である。あらゆる感覚を見てもらいたい。自分を見てもらいたい。すると、視力が生の謎を解き明かし、錯覚とは存在できないものであることを理解させ、見ることによる知恵の科学、非実在と実在の識別力がわれわれのものとなり、それ以後は、ちょうど発達した自我が行為するより見ること気づくことを魂として重視するように、生命として見るよりも存在することのほうが大切になる。見破ったあとは、われわれはただの存在である。地蔵のように、口元に笑みをたたえたまま、うごかなくなる。

目次