音学

音楽は、そのまま読めば”音を楽しむ”である。音もまた波動であり、一般的に楽しまれている音の響きが、すなわち人類の平均的な波動に対する感受性の段階を示している。その楽しむは、情緒的なものである。音の波動が上がるにつれ、それは情緒的に楽しむものではなくなる。高位の波動は、情緒を楽しいと感じさせる自身の傾向が浄化されたときに感受できるようになるものである。その波動は静かなものであり、いわゆる沈黙の音である。それを人が聴くならば、神聖なものに伴う厳かさ、敬虔とも呼ぶべき崇高ななにかを呼び醒ますだろう。その沈黙の音が美を奏でているのである。それは楽しむという表現にはあたらない。音楽は、人類においてはやがて音学になるだろう。現在、教育には様々な学問があるが、その多くは価値を失い、新たな学問が生まれ、音学はそのひとつになるだろう。それは物理学でも芸術学でもあり、もしわれわれが未来の音楽を聴くならば、それがとうてい音楽とは思えず、不可解なある種の気持ち悪さや、嘲笑的なものすら呼び起こすかもしれないが、”未来人”にとって、それは良いものである。なぜなら、彼らは魂だからである。

音学における学は、現在の学問が扱う知識とは関係がない。それは精神や心といったものが静止しなければ感受できないものである。それは沈黙の学びである。したがって、現在の音楽から楽しむ要素が消え、楽が学になるならば、宗教と芸術と教育は交わるだろう。それは、楽しむための情緒体(アストラル体)、知識を扱うマインド(低位メンタル体)が静かになったときの名づけえぬ学問である。この学びの素晴らしさを伝えうる言葉はこの世には存在しないが、それを一人ひとりに証明させるための手伝いが、当面のところわれわれの学問にならなければならない。今の学問の多くは個人的なものであり、翻って言うならば、内在者と融合することで解決することばかりである。だから、真我を知ること以外に、何も価値はない。それは自我には想像できないものだが、瞑想学を学びつづけることで、それが魂の学問であることを知り、沈黙の領域に導かれ、何とも違う、言葉で汚すことのできない存在を知るだろう。

初めに言(ことば)があったと聖書はいい、言によらず成ったものは何一つないと続け、音と神を結びつけている。それは波動であり、原因と結果について語っているにすぎない。原因は音であり、音は波動である。いずれにせよ、われわれの波長が神聖ならざるものへと向いており、習慣となって固定化しているため、内なる聴力は機能せず、生のなかで迷っている。瞑想を続けることで波動は正しく安定するだろう。瞑想に方法はないが、それを必要とする自我は方法で努力したがるだろう。その時期を乗り越えることは大変なことである。自分は自我であり、その自分では何もできないことに結局は絶望する。執着がひどいと人は自殺する。自我は自身という数十年の短い周期を過度に重視するため、多くにあやまってしがみつき、多くを不必要に背負っている。魂の永遠の視点があるならば、すべてのすべてに完全性を見ることができるだろう。これを覚えておき、耐え抜くことである。何であれ耐えておけばしばらくすると改善する。突然、音が流れはじめるだろう。その音は必ず癒やす。ここに、本物の音楽療法をわれわれは知るだろう。したがって、重視すべきは音の主である魂であり、彼の音と波長を教えるのもまた魂であり、瞑想しているのは魂である自分であり、この境地にて融合を知り、音学が自我を破壊するだろう。

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