力の話

人は行為で判断され、評価を下される。行為という見た目上の現象が人のなかで権威になっている。だから、いつも何をしろ、何をするなと言われる。そして行為によって祝いと罰がある。反省しますと人は言うが、一生反省している者だらけである。行為が結果にすぎないことが分かりませんか。重要なのは行為ではなく、行為をさせたものだと気づけますか。見えるものが人の世界では権威である。その現象を起こさせた力については誰も責任を問わない。例えば殺人は結果であり、殺人をした肉体を罰することが人の世界では法と正義だが、殺害させた力に対しては無罪放免である。その力は別の肉体を次は動かすだろう。このような、いわば害のある目に見えない力がそこら中に様々な色と形でうごめいており、いつも人はそれらの流入を無意識に許し動かされている。行為は子であり、行為へ駆り立てた力が親である。駒となる肉体ではなく、駒を動かしている力のほうが重要だと人類は気づいてほしい。

「私は結果という言葉よりも効果という言葉のほうを好む」。偉大な存在はこう語っている。行為もまた、ある力の意図する効果が現象としてあらわれたものである。問題なのは現象だろうか、それとも特定の現象という効果へ条件づけたものだろうか。

これが道徳の授業に反映されますように。そして、われわれ自身の生活に反映されますように。他人の行為を責めるならば、見ているところが違う。自分の行為に責任を感じているならば、見ているところが違う。行為の世界であれこれともがくのは、動くものと動かすものという理解がないからである。もしわれわれが、動いている人ではなく、人を動かしている力に直接働きかけることができるならば、世の肉体たちは、悪事と呼ばれるもののために動く必要がなくなったり、別の良いことのために動くこともできるのである。また自身の悪癖も乗り越えられるのである。見える肉体の行為に惑わされないようにしなければならない。われわれ自身がいつもそうであるように、他の人もまた、動かす力の犠牲者でしかない。許せないのは人ではない。許せない行為をさせた力が放置され見過ごされていることが、いわば悪なのである。

これは瞑想の話でもある。瞑想は、間違った動きをさせるこのような力を、正しい動きをさせる力に服従させる試みである。あるいは、正しい力の流れと、その源を見つけるための試みである。何が正しく何が間違いかを知るのは、この力を見つけたあとである。それまでは世界や自身の良識もしくは良心に頼るより他になく、それは個人的な価値観という解釈の限界内にある。解釈するマインドとは関係のないところに善や神や命と呼ぶべき力がある。この力が、まさにわれわれ自身によって誤解釈され、誤用されるときにいわば罪が発生する。別の言葉で言えば、カルマの素因になる。無知が原因を始動させるのである。この無知は、自分というものが何かを知らないことである。つまり、人としてのわれわれを動かす力の仕組みや過程に対する無知もしくは無意識である。

いかに瞑想が結果ではなく原因に関するものであるかが理解されるだろう。目に見えるものではなく、見えないが目に見えるものを動かしたり顕現させたりする力をわれわれは知り、それを高みに引き上げることで自身を克服しようとしているのである。個人が進化したり悟るための瞑想ではない。このような恥ずべき発想に屈してはならない。その個人に、悟りたい進化したいなどと言わせている力は何なのか。いつまでも逃避していてはならない。影響を与えようとする力、その感覚を見てもらいたい。それが扉であることを驚きとともに知るだろう。なんと身近な扉であったことか。これまでは、見ているところが違ったのである。だから、大きな感覚、例えば大きな苦悩とか恐怖とか悲しみとか、それらは扉になりやすいのである。圧倒するその感覚からもはや逃れられないとき、人がその力に面と向かって直面する可能性がある。そのとき、対象は瞬時に扉の向こうへ克服されるのである。そのとき、われわれは大なり小なり融合している。このような話は応用されなければ何の意味もない。今日、あるいは今、応用してもらいたい。感覚があるのに感覚を見ることができないはずがないではないか。見られたものは、錯覚であるかぎり、消え去る。そもそもなかったのである。真に存在していた実在がこうして見えるようになるだろう。錯覚を貫くことで、われわれは真我を知るのである。現実感に負けませんように。

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