本当に求めているもの

自我において、内なる旅路は難しく感じられる。道を歩いているようで、そのじつ道が見えない。茫漠と広がる砂礫のなかに独りかと思えば、人や建物に囲まれて、誰とも相容れない異質な自分に窒息しそうになっている。目に見える幻を現実だとかたく信じているのである。世界は宗教であり、大掛かりな洗脳であり、一人ひとりが目に見える物質を信仰している。感じられるもの、気分や衝動に追い立てられているが、それらの力もまた物質である。人類は、いつか目を瞑る必要があるだろう。

内なる領域を見るためには、それに対応した目で見なければならない。内なるものを知るためには、それに対応できない脳や精神が静かでなければならない。どのような行為も存在のなかに没し去らなければならない。

抵抗しないことを信条としている人がいるとする。それじたいが抵抗である。人と言いはするが、人は自分が何を求めているのかを知らない。本当のところ、私は何を求めているのか。これを自らに真剣に問いただしたことがある人は少ない。人はただ生きている。ただ欲望し、ただ好ましからざるものから逃げている。あなたは何を求めていますか。ある人は真我ですと答える。これは、質問の意味を理解しておらず、迷っている人の回答である。彼は真我を知らない。知らないものを求め、知らないものへ近づこうとし、知らない領域への道を歩もうとしているのだと言う。どう考えても、彼は迷うに違いない。「知らない人」に関わってはならない。彼は永遠の無知である。彼の領域で彷徨うことで、彼は自分という物語を編むことだけが目的である。

彼は、真我が必要なのではなく、それを必要だと思わせる動機や情緒といった自らに影響を与えてくる力の中に答えがあることを知らねばならない。これが、彼においてはまず内を見るということの第一歩である。彼における真我は、単に彼の想像である。それが本物と綯いあわされることはない。赤貧に喘ぐだけの苦しみにまみれた人生のなか、可能な時間を瞑想に捧げている者がいる。仮に、彼にさしあたり百億ばかり与えてみよう。彼はそれでも目を瞑り、それは真我とは関係がないと言うだろうか。まず間違いなく、彼はその百億で真我を忘れる。幸福な者として新たな人生を嬉々として歩みはじめる。おのれの内部に隠れていた欲望が次々と芽吹くのをむしろ喜び、それらの欲求を金の力で満たしはじめる。

たしか二十九のとき、このような状況がこれを書いている者に起きた。しかし彼は、百億よりも目を瞑ったのである。彼は選択できた。その金で多くをすることができただろうし、その金をさらにふくらませることも容易だっただろう。しかし、選択に迷うことすらなかった。彼はそのとき一つの試験に合格したが、簡単なテストだった。この者に何かを与えても、それを小さな自分のために手で掴むことも使うこともないことを幻の世界で証明したが、彼からすれば、価値のあるものとないものを識別しただけである。そのため内なる居住権が与えられている。だから、人は真我や真理を求めていると言うが、本当だろうかとよく思うのである。いま、彼が困っていることを解消し、本当に求めているものを満たしてやるならば、彼は瞑想しなくなり、幻の世界へ帰って行くだろうと思うのである。どうにもならない苦悩の環境や状況を強いられることは、この意味において彼を正しさへと固定させることにつながっている。こうでもしなければ、彼は幻から目醒めようとはしないからである。だから、本当に価値あるものの観点から、自らの状況を悲観しないでもらいたい。その忍耐には意味があり、実りがあることを知っていてもらいたい。

われわれは本当は何を求めているのだろうか。結局のところ、これを知らないから、真我を知らないことに気づくべきである。真我を知らない人が、なぜ真我を求めるのだろうか。この意味や欺瞞が分かるだろうか。欲望や想像と、それらではありえないものの違いが分かるだろうか。本当は、満たされていないものを満たしたいだけではなかろうか。ならば、その満たされていない感覚や、満たしたい感覚が、名づけえぬものを邪魔しているのである。それらの奥に答えがあることを徹底して知らねばならない。真我を求めているなど嘘をつかず、ありのままに見ることである。そのとき、絶対にいかなるものに対しても欲望などないはずである。真我や進化や純粋意識など、誰かが言った観念からは自由になるだろう。まったくそういうものに興味も関心もなくなるだろう。それらは嘘だからである。それらは途上の方便でしかない。この馬鹿馬鹿しさに本当に気づくならば、その馬鹿馬鹿しさが静かにさせるのである。無知が打ち破られ、勝手に静かになるのである。そこに、何を求めるものがあるだろうか。だから、求めているものがある時点で、間違っていることが知られるだろう。欲求に騙されてはならない。その惑わす欲求を本当に見たとき、幻の軛からは解放されるだろう。われわれは、本当は、何も求めるものなどないのである。

目次